関ヶ原の戦いが勃発。なぜ寝返った?
さらに秀吉からの冷遇は続きます。慶長の役(けいちょうのえき)で朝鮮へ渡り、奮戦するも、帰国後、秀吉により筑前を没収。代わりに越前北ノ庄15万石を与えられました。この大幅減封の理由は、「総大将でありながら敵陣に自ら乗り込んだ行為を軽率」とされ、秀吉の不興を買ったからとといわれていますが、真偽は不明です。間もなく秀吉が没し、家康のとりなしで筑前没収の処分は取り消されました。
そのような状況で、秀秋は運命の関ヶ原の戦いを迎えるのです。このとき18歳でした。
慶長5年(1600)、秀秋は宗家である毛利家とともに西軍の主力となり伏見城を攻略。しかし、決戦の地、関ヶ原では一転して東軍に付きます。
9月15日午後、去就を明らかにせず形勢を傍観していた秀秋が、家康からの厳しい催促によってようやく寝返ることを決め、大谷吉継(おおたに・よしつぐ)隊の側背に攻撃をしかけたのを境に、西軍は総崩れ。午後4時頃、東軍の勝利が決定しました。家康が動かない秀秋に業を煮やして小早川陣営に鉄砲を撃たせた、という有名な逸話も伝えられています。
ではなぜ、秀秋は寝返ったのか、それには諸説あります。まず、秀吉との因縁があります。そして秀秋は三成(みつなり)嫌い。先の朝鮮での戦いぶりを秀吉に報告したのが、三成だったからといわれています。
また、家康には旧領を取り戻すことのできた恩があります。さらには豊臣家より天下を重んじた高台院(寧々)からも東軍に付くよう打診があったとも。当初から、心の中は東軍に傾いていたのかもしれません。
そして、はかなき人生の終わり
関ヶ原の戦いの論功行賞で、西軍の副大将だった宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)の旧領、約50万石を与えられた秀秋は、岡山城に入城します。そして、従来の外堀の外側に新たに倍の幅を持つ堀を築き、城域を約2倍に拡張しました。
加えて、総検地の実施と農民保護、寺社領の再整備、古刹の復興、領内の域割りの実施等、数々の実績を残します。ようやく実力を発揮できたとき、秀秋は20歳で急逝。小早川本家は断絶しました。
死因はアルコール依存症による肝硬変だったのではないかとされています。実は秀秋は、元服した7歳の頃より、大名らによる接待攻勢でアルコールを摂取していたとも。その死は関ヶ原の戦いから2年後のことでした。
まとめ
小早川秀秋は、関ヶ原の戦いの一件で裏切り者の代名詞のように語られてきました。幼少期からの飲酒など、ネガティブなエピソードが多いのも事実。
けれど一方で、慶長の役では総大将に任命され、岡山では優れた治世を敷きます。そのような才覚を生かし切ることなく、若くして没した秀秋。まさに秀吉に翻弄された生涯でした。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
岡山シティミュージアム
日本大百科全書(小学館)