はじめに-毛利輝元とはどんな人物だったのか?

毛利輝元(もうり・てるもと)は、三本の矢の逸話でおなじみ、毛利元就(もうり・もとなり)の孫にして、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将を務めた人物です。では、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースに紐解いてみましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、秀吉の死後、家康に対抗して主導権を狙う野心家(演・吹越満)として描かれます。

絹本着色毛利輝元像(毛利博物館所蔵)

目次
はじめに-毛利輝元とはどんな人物だったのか?
毛利輝元が生きた時代
毛利輝元の⾜跡と主な出来事
まとめ

毛利輝元が生きた時代

毛利輝元が生まれたのは、安芸(あき)の小領主だった祖父・元就が大きく勢力を伸ばしている時期でした。尼子晴久(あまご・はるひさ)を破り、陶晴賢(すえ・はるたか)を打ち、輝元2歳の頃には、大内義長(おおうち・よしなが)を破って、中国地方の覇権を握ります。

元就が亡くなり、天下が信長から秀吉、家康へと移り変わるたび、輝元の立ち位置は移ろいました。

毛利輝元の⾜跡と主な出来事

毛利輝元は天文22年(1553)に生まれ、寛永2年(1625)に没しています。その生涯を主な出来事とともに辿ってみましょう。

室町幕府最後の将軍をかくまう

毛利輝元は、毛利元就の嫡孫として吉田郡山城に生まれました。幼名は幸鶴丸(こうつるまる)。永禄6(1563)、父・隆元(たかもと)が急逝したため、若くして毛利家14代目当主となりました。

翌年、元就の後見で元服し、将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)から一字を拝領して輝元に。元就が亡くなると、叔父の吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)の援護を受けて、中国地方のほぼすべてという広大な領土を維持。当時、毛利家は織田信長と同盟関係を結んでいましたが、天正4年(1576)、信長と対立した15代将軍・足利義昭(よしあき)を鞆の浦(とものうら)に庇護し、以降、毛利家と信長は敵対する関係となりました。

紙本著色毛利元就像(毛利博物館蔵)

信長との対決から秀吉との講和へ

天正5年(1577)、織田信長は秀吉に命じて毛利攻めを決行。6年に及ぶ戦いで、輝元率いる毛利軍は備中(びっちゅう)、備前(びぜん)の国堺地域で攻防を繰り広げました。特に有名なのが、天正10年(1582)、「備中高松城の戦い」です。秀吉は近くを流れる川に堤防を築いて、城の周囲にその流れを引き入れる「水攻め」をしかけます。水に浮かぶ孤島と化した城へと輝元は救援に駆け付け、両者、直接対決の様相をみせますが、ここで本能寺の変の一報が入ります。秀吉は急ぎ毛利と講和を結び、京へと急いだのでした。

備中高松城の戦い
赤松之城水責之図/東京都立中央図書館所蔵

その後輝元は、家名存続を最優先にし、備中高松城主の首と備中、美作(みまさか)、伯耆(ほうき)の3か国を秀吉に差し出します。秀吉の四国攻めでは先陣として小早川隆景らの軍勢を伊予(いよ)に派遣し、九州攻めでは自ら先鋒を務めるなど活躍。秀吉より9か国112万石を安堵され、本拠地を吉田郡山城から広島城へ移します。

2度の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍するなど貢献した輝元は権中納言に任ぜられ、秀吉の晩年には、徳川家康、前田利家(まえだ・としいえ)、宇喜多家秀(うきた・ひでいえ)、そして叔父の小早川隆景とともに五大老と見なされるまでになりました(五大老制度化時は、亡くなった小早川隆景に代わり上杉景勝<うえすぎ・かげかつ>が就任)。

秀吉亡きあと、関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれたのも当然の成り行きだったといえるでしょう。

関ヶ原の戦い、だが動かず。次ページに続きます

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