大坂冬の陣で和睦の使者をつとめる
阿茶局は、大変聡明な女性だったと言います。大奥の統制に努めていたのも、そうした才覚のあらわれの一つでしょう。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、家康の意向を受けて、淀君の妹である京極高次の妻・常高院 (じょうこういん)とともに大坂城へ行き、和睦の交渉役を務めました。この時、淀君と秀頼の誓書を取るなど、政治的な役割を果たしています。
家康の死後も、阿茶局への特別扱いは続く
家康には15人以上もの側室がいたと言われていますが、その中でも阿茶局は特別扱いを受けたと言ってもいいでしょう。元和2年(1616)、家康の死後、側室は全員落飾しましたが、家康の遺言により、阿茶局だけは髪を下ろしませんでした。
その後も、阿茶局の活躍は続きます。元和6年(1620)秀忠の五女・和子 (かずこ、のちの東福門院)が後水尾(ごみずのお)天皇に入内した時、阿茶局は母親代わりとして、上洛したのです。
元和9年(1623)に皇女(のちの明正天皇)出産の際にも、上洛して世話をしたと言います。こののち、阿茶局は、後水尾天皇から従一位の位が与えられました。「神尾一位局」や「一位の尼」などと呼ばれるようになったと言われています。
寛永9年(1632)、秀忠が没すると、剃髪をし雲光院と号しました。これは、慶長6年(1601)に家康に許可されて江戸馬喰町に建てた寺の院号です。
その後、寛永14年(1637)1月22日、83歳で亡くなっています。
まとめ
阿茶局は、武家出身の女性だっただけに、馬術や武芸にも長けていたと言われています。戦場だけでなく政治の場にも、阿茶局を従わせたのは、家康からの厚い信頼の表れでしょう。
一般によく知られた存在ではありませんが、陰日向なく才知を生かし、日本の歴史を動かした人物の中の一人だと言えるのではないでしょうか。
文/京都メディアライン
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参考図書/
日本大百科全書(小学館)
世界大百科事典(平凡社)
日本人名大辞典(講談社)
国史大辞典(吉川弘文館)