はじめに-大久保忠世とはどんな人物だったのか
大久保忠世(ただよ)は、松平氏(徳川氏)の家臣です。祖父の代から松平家に仕える家系に生まれ、父・弟とともに家康を支えました。武功派の16人「徳川十六神将」(とくがわじゅうろくしんしょう)に名を連ねるため、様々な戦で功績を立てた猛将としての印象をお持ちの方も多いのではないでしょうか。敵将であった武田信玄が、奇襲してきた忠世を「勝ちてもおそろしき敵かな」と賞賛した、という逸話もその強さを物語っています。
では、実際の大久保忠世はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、「色男」を自称する、面倒見のいいみんなの兄貴(演:小手伸也)として描かれます。
目次
はじめに-大久保忠世とはどんな人物だったのか
大久保忠世が生きた時代
大久保忠世の足跡と主な出来事
まとめ
大久保忠世が生きた時代
大久保忠世は、家康が生まれるちょうど10年前に生まれ、彼の父・広忠(ひろただ)に仕えました。そののちに家康にも仕え、有力武将として様々な戦いに加わっていきます。江戸幕府が開かれる数年前まで生きた彼の生涯はまさに、家康が天下人となる道程と重なっているようです。
大久保忠世の足跡と主な出来事
大久保忠世は、天文元年(1532)に生まれ、文禄3年(1594)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
松平家の家臣・大久保氏に生まれる
大久保忠世は、松平家の家臣・大久保忠員(ただかず)の長男です。天文元年(1532)、三河国上和田(かみわだ)郷(=現在の愛知県岡崎市)に生まれました。父・忠員は、家康の父・松平広忠に仕え、広忠の岡崎帰城実現のため尽力した人物とされます。
そもそも大久保氏は、下野国・大久保村(=現在の栃木県那須郡)の武将・宇都宮朝綱(ともつな)の子孫とされます。南北朝時代に、南朝に属した武将・宇都宮泰藤(やすふじ)が三河に移り住みました。その後、松平信光(のぶみつ)に仕えたことで、徳川氏譜代の臣になったと伝えられます。
「大久保氏」を称したのは、忠世の祖父・忠俊(ただとし)とされます。そして父・忠員とともに、忠世は若年より広忠に仕え、織田氏との合戦にて武功をあげます。
「蟹江七本槍」の一人に名を連ねる
弘治元年(1555)、松平氏は今川方として敵対する蟹江城(=現在の愛知県海部郡蟹江町に位置)を攻めます。その際、忠世は父・忠員や弟・忠佐(ただすけ)、伯父・忠俊(ただとし)らとともに奮闘。その活躍から「蟹江七本槍」の1人として名を連ねました。
「賤ヶ岳七本槍」で有名な「○○七本槍(しちほんやり)」という呼称は、特定の戦いで功名をあげた7人の武将を指します。蟹江城攻めで活躍した「蟹江七本槍」のうち4人が大久保一族であり、松平家における大久保一族の存在感を窺い知ることができます。
【様々な合戦で戦功を立てる。次ページに続きます】