はじめに-阿茶局とはどんな人物だったのか
阿茶局(あちゃのつぼね)は、徳川家康の側室です。大坂冬の陣の時は、和睦の使者を務めた才女としても知られていますが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、武芸をたしなみ、家康が数々の戦にも同行させた、美しさと才覚を持つ側室(演:松本若菜)として描かれます。
目次
はじめに-阿茶局とはどんな人物だったのか
阿茶局が生きた時代
阿茶局の足跡と主な出来事
まとめ
阿茶局が生きた時代
戦国時代は、1世紀にわたる激動期。天文12年(1543)に鉄砲が伝来してからは、戦術の変化だけではなく、社会動向も大きく変わりました。阿茶局が生まれた弘治元年(1555)は、戦国大名による地域権力の形成と、大名同士の争いが各地で勃発しているような時代でした。
戦国時代というと、覇権争いばかりがクローズアップされますが、その裏では戦う武将たちを支え、逞しく生き抜いた女性たちも数多くいました。阿茶局は、そんな女性の一人です。
阿茶局の足跡と主な出来事
阿茶局は、弘治元年(1555)に生まれ、寛永14年(1637)に没しました。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
甲斐武田氏の家臣の子として生まれ、今川氏の家臣と結婚する
阿茶局は、甲斐武田氏の臣・飯田筑後直政 (なおまさ) の娘です。弘治元年(1555)2月13日に生まれました。名を須和 (すわ)と言います。直政は武田氏の家臣でしたが、武田氏と今川氏の和睦に伴い、今川氏の家臣となりました。
そうした縁もあり、阿茶局は、天正元年(1573)19歳で駿河今川氏の臣・神尾孫兵衛忠重(久宗)と結婚。男児を授かるものの、4年後に夫は亡くなってしまいます。寡婦となった阿茶局は、この時、路頭に迷ったとか……。
家康に請われる形で、側室に
阿茶局が困っていた時に、手を差し伸べたのが徳川家康でした。阿茶局は、家康に請われる形で側室となります。「阿茶局」と称すようになったのは、この頃からです。阿茶局は、妻妾中才略第一の人物として、戦場にもしばしばついて行ったと言います。
天正12年(1584)小牧長久手の戦いの際にも従軍していましたが、戦場で流産してしまったとの記録が残っています。最終的に、家康との間には、子宝に恵まれませんでした。
天正17年(1589)、側室の於愛の方(西郷局)が亡くなると、秀忠・忠吉の養育を担当することになります。ちなみに、阿茶局の子・神尾守世は、秀忠の御伽衆でした。
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