大坂の陣で家康を追い詰めるも散る
慶長19年(1614)に大坂城で挙兵した豊臣秀頼の招きに応じて、信繁は部下を率いて九度山を発ち大坂に入城。その年の冬の陣では、大坂城の外堀の外に城塁(世にいう「真田丸」)を築き、ここを拠点に徳川方の軍を相手に奮闘します。大坂冬の陣では、約5,000の兵を率いて活躍。しかし、手柄を嫉妬され気苦労が絶えなかったとか……。
元和元年(1615)に夏の陣が起こります。前回の冬の陣の講和の結果、総構を破壊された上に三ノ丸まで埋められてしまったことから、籠城は困難と見て、信繁は城外で徳川軍と戦うことを決意。この時、信繁は部隊の軍装を有名な「赤備え」にし、具足や旗差物など武具を朱塗りにしています。
5月6日、後藤基次・薄田兼相らとともに大和方面を防ごうとして、河内国片山道明寺へ向かいますが、基次らが敗死。翌7日、信繁は長宗我部盛親とともに茶臼山に向かい、天王寺付近で松平忠直の軍と交戦。一時は家康の本陣に迫って、家康に死を覚悟させるまで追い詰めるも、ついに戦死。49歳のことでした。
信繁の戦いぶりは凄まじかったようで、敵方からも「真田日本一の兵、古より物語にもこれなき由」(島津家久)と称賛されるほどでした。
真田十勇士
信繁の10人の家来として、猿飛佐助 (さるとびさすけ)、霧隠才蔵 (きりがくれさいぞう)、三好清海入道 (みよしせいかいにゅうどう)などが「真田十勇士」として伝わっています。しかし、その武勇伝は架空のもの。
実は、真田十勇士が成立して人気を得たのは、明治末から大正初期にかけて発行された立川文庫での創作以降だとか。同文庫で40冊目の『猿飛佐助』(1914)がヒットしたのを皮切りに、他の勇士たちの話が作られました。勇士たちが特殊能力で徳川勢を相手にした活躍が爆発的な人気を得ることになり、今に伝わります。
まとめ
上田城の戦いで家康を翻弄した信繁は、その生涯の最後においても家康の前に立ちはだかり、一時は死を覚悟させるまで追い詰めました。最後は敗死することになりますが、死んでもなおその名は長きに渡って多くの人の記憶にとどまることになるのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
上田市デジタルアーカイブポータルサイト