はじめに-真田信繁(幸村)とはどんな人物だったのか

真田信繁(さなだ・のぶしげ)は、大坂の陣で豊臣方の中心として奮戦し、一時は家康に死を覚悟させるほど追い詰めたことが知られていますが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、真田昌幸の次男として不屈の精神を受け継ぎ、優れた知略・武力を駆使して、上田合戦や大坂の陣と最後まで家康の天下取りに抵抗する人物(演:日向亘)として、描かれます。

目次
はじめに-真田信繁(幸村)とはどんな人物だったのか
真田信繁が生きた時代
真田信繁の足跡と主な出来事
まとめ

真田信繁が生きた時代

戦国時代には、主家の滅亡や刑罰による追放などによって主人を持たない武士、浪人(牢人とも記述)が多くいました。大坂の陣に際して、豊臣方は家康との決戦のために多くの浪人を雇いますが、その中の一人が真田信繁だったのです。

三光神社(大阪市)にある真田信繁像

真田信繁の足跡と主な出来事

真田信繁は生年が永禄10年(1567)で、没年が元和元年(1615)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

有力武将としての成長

信繁は永禄10年(1567)に、信濃の上田城主である真田昌幸の次男として生まれました。

天正13年(1585)、沼田城(=現在の群馬県沼田市)の北条氏への返還をめぐる問題で真田氏は家康と対立。真田氏は上田城(長野県上田市)に籠城して家康を迎え撃ちます。信繁は父・昌幸や兄・信幸と協力して家康の軍を攻撃、大きな損害を与えました。

天正11年(1583)に千曲川尼ケ淵の断崖上の要地に上田城は築城された。
城下町は現在の上田市の市街地の原型となっている。

その後、昌幸が上杉氏と結んだため、上杉景勝のもとに預けられますが、昌幸が秀吉へ帰属するにあたって秀吉の近侍となり、大谷吉継の娘を妻とすることに。

天正18年(1590)の小田原合戦では昌幸・信幸とともに出陣し、中山道の先鋒として戦果をあげました。文禄元年(1592)の朝鮮出兵時には名護屋にまで出陣しています。文禄3年(1594年)には、従五位下(じゅごいのげ)左衛門佐(さえもんのすけ)に叙任。

関ヶ原の戦いの結果、流罪となる

慶長5年(1600)、家康が上洛催促に応じない上杉氏を討伐するため会津へ出陣した際、信繁は父や兄とともに従軍していました。ところが、下野国の犬伏まで来たところで、石田三成が挙兵したとの情報を得ます。兄・信幸は妻が家康の家臣・本多忠勝の娘であることもあって東軍に属しますが、信繁は豊臣氏に対して恩があったため父の昌幸とともに西軍につきました。

信繁は上田城に籠城し、中山道から関ヶ原に向かう徳川秀忠率いる大軍3万8,000を相手にわずか2,500の兵で戦いに挑みます。秀忠はこれに苦戦し、関ヶ原の戦いに遅刻。家康は激怒し、面会拒絶されました。

しかし、関ヶ原の戦いでは西軍が敗れたため、家康によって所領は没収。昌幸・信繁は命が危ない状況になりますが、東軍に属した信幸の嘆願によって死を免れ、紀伊の高野山の麓・九度山(くどやま)に流されるだけで済みました。

九度山にいた間、信繁は信幸からの仕送りに頼って生活をしていたようです。父・昌幸は現地で病没してしまうものの、信繁は兵術・天文の学習や紀ノ川での水練、家臣を各地に派遣しての情報収集など、再起に備えての準備を続けていました。

真田神社にある青年眞田幸村(信繁)公之像

大坂の陣で家康を追い詰めるも散る。次ページに続きます

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