はじめに-茶々とはどんな人物だったのか?

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する茶々(淀殿、演:井上和)は、信長(演:小栗旬)の妹・市(演:宮崎あおい)と浅井長政(演:中島歩)の間に生まれた浅井三姉妹の長女です。茶々は秀吉(演:池松壮亮)の側室となり子をなしますが、最後は大坂夏の陣で徳川家康(演:松下洸平)に敗れ、豊臣家を滅亡させたことから、「日本三大悪女」の一人と誹られることもあります。

史実をたどり、戦国の大きな転換点を幾度もくぐり抜けた数奇な生涯を見ていきましょう。

『豊臣兄弟!』では、仇である秀吉の側室となる女性として描かれます。

茶々
茶々

茶々の生きた時代

茶々が生きたのは、織田信長が勢力を拡大し、豊臣秀吉が天下統一へ進み、さらに徳川家康が覇権を握っていく、激動の時代でした。近江(現在の滋賀県)の戦国大名・浅井長政の娘として生まれた茶々は、幼いころから戦乱に翻弄されます。

天正元年(1573)に父・浅井長政が小谷城で自害すると、茶々は母・市、二人の妹とともに脱出。その後も、母の再嫁、北ノ庄城落城、秀吉の庇護、そして秀吉の側室となるという、大きな変転を経験しました。

やがて茶々は、単なる「秀吉の側室」ではなく、秀頼の生母として豊臣家の中心に位置するようになります。秀吉の死後は、徳川家との対立が深まる中で、豊臣家を支える立場に立ちました。茶々の生涯は、そのまま豊臣家の盛衰と重なっているといえます。

茶々の足跡と主な出来事

茶々は、永禄10年(1567 ※永禄12年《1569》説もあり)に生まれ、慶長20年(1615)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

浅井長政と市の長女として誕生

北近江の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・お市の長女として、小谷城(おだにじょう)で誕生。妹に初(はつ)と江(ごう)がいます。

父は近江の有力戦国大名、母は織田家の女性ですから、茶々は生まれながらに戦国の有力家どうしを結ぶ血筋にありました。けれども、その華やかな出自とは裏腹に、幼少期から平穏とはほど遠い人生を歩むことになります。

小谷城跡

小谷落城と最初の大きな別れ

天正元年(1573)、父・浅井長政は織田信長に攻められ、小谷城で自刃しました。このとき茶々は、母・市、二人の妹とともに城を脱出します。

その後、茶々たちは尾張へ移り、信長の弟・信包のもとで養育されました。父を失い、居城を失い、生活の場を移すという経験は、幼い茶々にとって非常に大きな出来事だったはずです。

道の駅 浅井三姉妹の郷(滋賀県長浜市)にある、「お市の方と浅井三姉妹」像

北ノ庄城落城と、秀吉の庇護下へ

天正10年(1582)、本能寺の変で信長が自刃。母・市は、信長の有力家臣・柴田勝家に再嫁することに。この時、茶々は母・市にしたがい、勝家の居城・越前北ノ庄(きたのしょう)へと向かいます。

しかし、翌天正11年(1583)、勝家は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで秀吉に敗れ、市とともに自刃。秀吉の功業を記した『秀吉事記(ひでよしじき)』によると、このとき、勝家は市に城を出るよう説得したと言いますが、市はともに自害することを主張したと伝えています。

北の庄城址・柴田公園(福井県福井市)
北の庄城址・柴田公園にある説明板

その後、茶々ら三姉妹は、秀吉に保護され、引き取られることに。次女・初は若狭小浜藩主・京極高次の正妻となり、三女・江は第2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)に嫁ぎました。

そうした中で、茶々は秀吉の側室となります(1588年頃)。

柴田神社(北の庄城址)にある、茶々・初・江、三姉妹の像

秀吉の側室となり、「淀殿」と呼ばれる

やがて茶々は秀吉の寵愛を受けるようになります。天正17年(1589)、茶々は懐妊。喜んだ秀吉は弟・秀長を後見、細川忠興を補佐として、山城(現在の京都府南部)の淀城を改築し、茶々に与えました。このことから、茶々は「淀殿」と呼ばれるようになります。

そして、この年の5月27日、棄(のちの鶴松)を産みますが、天正19年(1591)8月5日に夭逝してしまいます。

それでも茶々の地位は揺らぎませんでした。秀吉にとって待望の男子を産んだ存在であり、秀吉の寵愛を一身に受けていたからです。秀長が後見に関わったことも、茶々がこの時期いかに重く見られていたかを示しています。

秀頼を産み、豊臣家の中心へ

天正20年(1592)、秀吉は朝鮮出兵に際し、肥前名護屋城で軍の指揮をしましたが、このとき、淀殿も随伴したという記録が残されています。陣中で懐妊し、文禄2年(1593)8月3日に拾(のちの秀頼)を産んだことで、秀吉の寵愛を一身に受けることに。

名護屋城址
名護屋城址

この時、世継ぎの「お袋様」として正室の寧々をも上回る威勢を誇るようになったともいわれています。翌年、秀頼とともに、伏見城二の丸で暮らすようになりました。

秀吉の死後、大坂城で権勢を振るう

慶長3年(1598)8月、秀吉が亡くなると遺言に従い、秀頼を擁して慶長4年(1599)1月10日に伏見城から大坂城へと移ります。以後は秀頼の生母として、大坂城中で大きな権勢を持ちました。

『日本大百科全書』(小学館)では、茶々が政治にも容喙し、豊臣氏の天下を危うくしたとありますが、この点はやや慎重に読む必要があります。『国史大辞典』(吉川弘文館)や『世界大百科事典』(平凡社)は、茶々が秀頼の生母として大坂城中で強い影響力を持ったこと自体は事実としつつも、「淀君の乱行」といった話は江戸時代の臆説・創作だと明記しています。

そのため、茶々を単純に「豊臣家を誤らせた女性」というのは適切ではないかもしれません。史料に基づいていえるのは、彼女が秀頼の母として大坂城内で大きな発言力を持ち、豊臣家の中核にいたということです。

徳川家との対立と大坂の陣

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、淀殿と近い関係のあった石田三成が滅び、徳川家康が覇権を握ると、豊臣家の立場は急速に弱まります。秀頼は、摂津・河内・和泉の60万石を領する一大名に転落。しかし、この時点において、秀頼は朝廷の官位では秀忠に次ぎ、諸国の大名への影響力も保っていました。

慶長8年(1603)、秀頼は徳川秀忠の娘・千姫を娶ります。同じ年、医師の曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)が淀殿を診た医案が残されています。そこには、「秀頼公御母 御気鬱滞食眩暈」(気鬱から食事が滞り、めまいも出ている)と記されており、淀殿の心労が伝わってくるようです。

茶々は、徳川氏への屈服をよしとせず、徳川方の付家老のような立場にあった片桐且元を退け、大野治長を重用したとされています。

慶長19年(1614)、方広寺大仏殿の鐘銘事件を口実に、徳川方が豊臣家に人質提出や転封を強要し、大坂城を囲みます(大坂冬の陣)。淀殿の妹・初が和議の使者をつとめ、一時講和が成立しました。

大坂城落城と最期

しかし、それも束の間。再び開戦し(大坂夏の陣)、元和元年(1615)5月8日に大坂城は落城。淀殿は、秀頼とともに城中で自害し、豊臣氏は滅亡しました。淀殿、享年49歳でした。

まとめ

淀殿が大坂城で権勢を振るったことは事実のようですが、「淀君の乱行があった」というのは、江戸時代の臆説のようです。また、生前「淀君」と呼ばれることもなかったとか。

江戸時代の読本『絵本太閤記』で、淀殿は蛇の化身として描かれています。このようなことから、淀殿=悪女という説は江戸時代に広がったのではないでしょうか。歴史は勝者によって作られるといいますから、淀殿の本当の姿を知るにはまだまだ研究が必要なのかもしれません。

いずれにしても、茶々は戦国の悲劇を背負った女性であると同時に、豊臣家の盛衰を体現した人物でもありました。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

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肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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