はじめに-茶々(淀殿)とはどんな人物だったのか?
茶々(淀殿)は、信長の妹・お市と浅井長政の間に生まれた浅井三姉妹の長女です。茶々は秀吉の側室となり子をなしますが、最後は大坂夏の陣で徳川家康に敗れ、豊臣家を滅亡させたことから、「日本三大悪女」の一人と誹られることもあります。
では、実際の茶々(淀殿)はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、若くして父母を失ってしまいますが、やがて乱世を御していく気高い女性(演:白鳥玉季<少女時代>)として描かれます。
目次
はじめにー茶々(淀殿)とはどんな人物だったのか?
茶々(淀殿)の生きた時代
茶々(淀殿)の足跡と主な出来事
まとめ
茶々(淀殿)の生きた時代
茶々(淀殿)は、北近江(=現在の滋賀県)の戦国大名の浅井長政とお市の方の長女です。浅井氏の滅亡後は柴田勝家に再嫁した母に従い、越前(=現在の福井県)北庄城に入ります。その後、柴田勝家も落城。茶々は、攻め落とした主である秀吉に引き取られることになるのです。
若くして実父・養父、そして母と死別した茶々(淀殿)。戦国時代の終わり、数奇な運命に翻弄される女性の一人です。
茶々(淀殿)の足跡と主な出来事
茶々(淀殿)は、永禄10年(1567 ※永禄12年説もあり)に生まれ、慶長20年(1615)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
浅井長政とお市の子として誕生
北近江の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・お市の長女として、小谷城(おだにじょう)で誕生。妹に初(はつ)と江(ごう)がいます。
お市の結婚は、長政と同盟を結ぶための政略的なものでした。しかし、元亀元年(1570)、長政は長らく同盟関係にあった朝倉義景(よしかげ)を支援し、信長に離反。抗争するも、姉川で大敗します。天正元年(1573)8月、小谷城は落城。このとき、攻めたのは木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)でした。父・長政は自死し、茶々はお市・妹とともに城を脱出し、清洲城で育てられたと言われています。
浅井氏滅亡後、越前北ノ庄へ
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が自刃。母・お市は、信長の有力家臣・柴田勝家に再嫁することに。この時、茶々は母・お市にしたがい、勝家の居城・越前北ノ庄(きたのしょう)へと向かいます。
しかし、翌天正11年(1583)、勝家は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで秀吉に敗れ、お市とともに自刃。秀吉の功業を記した『秀吉事記(ひでよしじき)』によると、このとき、勝家はお市に城を出るよう説得したと言いますが、お市はともに自害することを主張したと伝えています。
その後、茶々ら三姉妹は、秀吉に保護され、引き取れられることに。次女・初は若狭小浜藩主・京極高次の正妻となり、三女・江は第2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)に嫁ぎました。
そうした中で、茶々は秀吉の側室となります(1588年頃)。
【秀吉の側室となり、秀頼を産む。次ページに続きます】