秀吉の側室となり、秀頼を産む
天正17年(1589)、茶々は懐妊。喜んだ秀吉は弟・秀長を後見、細川忠興を補佐として、山城の淀城を改築し、茶々に与えます。このことから、茶々は「淀殿」と呼ばれるように。そして、この年の5月27日、棄(のちの鶴松)を産みますが、天正19年(1591)8月5日に夭逝してしまいます。
天正20年(1592)、秀吉は朝鮮出兵に際し、肥前名護屋城で軍の指揮をしましたが、このとき、淀殿も随伴したという記録が残されています。陣中で懐妊し、文禄2年(1593)8月3日に拾(のちの秀頼)を産んだことで、秀吉の寵愛を一身に受けることに。この時、世継ぎの「お袋様」として正室の寧々をも上回る威勢を誇るようになったとか。翌年、秀頼とともに、伏見城二の丸で暮らすようになりました。
慶長3年(1598)8月、秀吉が亡くなると遺言に従い、秀頼を擁して慶長4年(1599)1月10日に伏見城から大坂城へと移ります。
大坂の陣で、徳川家康に敗れる…
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、淀殿と近い関係のあった石田三成が滅び、徳川家康が覇権を握ると、豊臣家の地位は低下。秀頼は、摂津・河内・和泉の60万石を領する一大名に転落します。しかし、この時点において、秀頼は朝廷の官位では秀忠に次ぎ、諸国の大名への影響力も保っていました。
慶長8年(1603)、秀頼は徳川秀忠の娘・千姫を娶ります。同じ年、医師の曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)が淀殿を診た医案が残されています。そこには、「秀頼公御母 御気鬱滞食眩暈」(気鬱から食事が滞り、めまいも出ている)と記されおり、淀殿の心労が伝わってくるようです。
慶長19年(1614)、家康は方広寺大仏殿の鐘銘を口実に豊臣家に人質提出あるいは転封を強要し、大坂城を囲みます(大坂冬の陣)。淀殿の妹・初が和議の使者をつとめ、一時講和が成立しました。
それも束の間、再び開戦し(大坂夏の陣)、元和元年(1615)5月8日に大坂城は落城。淀殿は、秀頼とともに城中で自害し、豊臣氏は滅亡しました。淀殿、享年49歳でした。
まとめ
淀殿が大坂城で権勢を振るったことは事実のようですが、「淀君の乱行があった」というのは、江戸時代の憶説のようです。また、生前「淀君」と呼ばれることもなかったとか。江戸時代の読本『絵本太閤記』で、淀殿は蛇の化身として描かれています。このようなことから、淀殿=悪女という説は江戸時代に広がったのではないでしょうか。
歴史は勝者によって作られると言いますから、淀殿の本当の姿を知るにはまだまだ研究が必要なのかもしれません。
文/京都メディアライン
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引用・参考図書/
『日本代百科全書』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『世界大百科事典』(平凡社)