秀吉の没後、家康につく
また、秀吉の没後の慶長5年(1600)、対立していた石田三成を清正・細川忠興ら6大名とともに襲い、失脚に追い込みました。朝鮮出兵の際、三成は秀吉の意向を忠実に実行して大名たちを動かしており、朝鮮での戦果によって石高を増やしたり、反対に減封したりしていたのです。このような行ないに、朝鮮で戦っていた武将たちは不満を抱いていました。この事件については、徳川家康が正則らをなだめ、三成は佐和山城に逃れ、難を逃れます。
慶長5年(1600)の会津征討には、家康の指揮の下に豊臣武将たちと共に従軍するも、三成が挙兵したという報を受けると、豊臣武将をまとめて家康の味方になりました。正則は豊臣恩顧の大名であったものの、三成に対する不満が強く、家康につくことにしたのです。関ヶ原の戦いでは、先鋒一番手として西軍の宇喜多秀家と戦い、東軍勝利に大きく貢献。
戦後、広島城を居城に安芸・備後の49万8000石を領しました。毛利氏を意識した配置とも言われています。正則は三原城(広島県三原市)などの6か所に支城を設置、有力家臣を配置して支配を固めました。また、石高を基準とした年貢徴収制度を整備し、広島・宮島・尾道などでは、農民・商工業者・武士は明確に区別する身分制度を確立。
経済面では、広島城の北部の西国街道を城下に引き入れ、町人の居住区を拡大します。城下町広島の商業の発展を図りました。他にも、洪水に備え広島城外周部の川の堤防を対岸より高くしています。
大坂冬の陣では、家康によって江戸屋敷に留め置かれ、戦闘には加わりませんでした。家康が正則を警戒したためとも言われます。ただ、豊臣家に恩があったのもあってか、大坂蔵屋敷の兵粮米については大坂方の奪うに任せていました。大坂夏の陣では、息子を出陣させるも戦闘には間に合いませんでした。
晩年
その後、広島城での無断修築を武家諸法度違反と咎められ、広島城の部分的な破却を求められましたが、福島側は十分に履行せず、徳川秀忠の厳命で正則は改易に。当初、正則は津軽へ転封予定でしたが変更、上杉謙信と武田信玄が戦ったことで有名な信州川中島4万5000石に移され、高井野村に蟄居しています。現地でも治水工事・用水建設・新田開発を行い、領民に慕われていたようです。正則が住んでいた屋敷跡は現在史跡になっています。
寛永元年(1624)に病没。夏の暑い時期であったこともあり、幕府の検使・堀田正利の到着以前に遺骸が火葬されたことをもって封は没収されました。
正則は江戸幕府に対して強硬な態度を貫き、旗本には傲慢とも受け取れる対応をしていたようです。このような振る舞いが、後に幕府の対応に影響したと推測できるでしょう。ただ、広島城主としての政治経済・文化政策や、晩年を過ごした高井野村での治水工事などでの評価は高いようです。
まとめ
当初、秀吉の側近として出世するも、後に家康に従い、広島城主になり、最後は高井野村で静かに晩年を過ごした福島正則。まさに波乱万丈の人生であったと言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
広島城公式ページ
長野県高山村公式ページ