はじめに-山県昌景とはどんな人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する山県昌景(やまがた・まさかげ 演:石井一彰)は、武田信玄(演:高嶋政伸)・勝頼のもとで重臣として活躍し、「赤備(あかぞなえ)」で知られる精強な部隊を率いた名将として名高い存在です。元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでは徳川家康(演:松下洸平)を大いに苦しめました。

この記事では、山県昌景が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。

『豊臣兄弟!』では、武田家の重臣として描かれます。

山県昌景
山県昌景

山県昌景が生きた時代

山県昌景が生きたのは、甲斐(現在の山梨県)の武田氏が信濃(現在の長野県)・駿河(現在の静岡県東部および中部)・遠江(現在の静岡県西部)方面へと勢力を広げ、戦国大名として大きな存在感を示していた時代です。武田信玄のもとで武田家は最盛期を迎え、周辺諸国との戦いを重ねながら領国を拡大していきました。

しかしその一方で、戦国後期になると、織田信長や徳川家康が台頭し、東国・中部の勢力関係は大きく変化していきます。武田氏もまた、そうした新たな情勢の中で西へ進出しようとし、徳川氏や織田氏との対決を深めていきました。

昌景は、まさにその転換期を生きた武将です。

山県昌景の足跡と主な出来事

山県昌景の生年は、不詳です。天正3年(1575)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

飯富氏の出身、のちに山県へ改姓

山県昌景の前半生を語るうえで欠かせないのが、兄・飯富虎昌(おぶ・とらまさ)の存在です。昌景はもともと飯富氏の一族で、兄の虎昌が武田氏の重臣として活躍していました。虎昌は武田信虎に仕え、天文10年(1541)には板垣信形らとともに武田晴信、のちの信玄を擁立して信虎を追放し、その後も信濃攻めの前線で働いたとされています。

しかし永禄8年(1565)、虎昌は武田信玄の長男・義信の謀反計画に連座して自刃。これを受けて、弟の昌景は飯富から山県へ改姓したとされています。

兄の失脚は昌景にとって大きな転機だったはずですが、その後、昌景は武田家中で再び重きをなす立場へ進んでいきました。

武田信玄・勝頼に仕え、譜代家老衆へ

山県昌景は、武田信玄・武田勝頼に仕えた譜代家老衆のひとりです。信玄時代の武田家は、多くの有能な家臣に支えられていましたが、その中で譜代家老衆に進むということは、家中でも特に高い信頼を得ていたことを意味します。

武田信玄

「赤備」で名をはせる

山県昌景を語るとき、やはり外せないのが「赤備(あかぞなえ)」でしょう。赤備とは、軍勢の装身具・甲冑・武器・馬具・旗・指物などを赤一色に統一した部隊のこと。部隊の存在を一目で示すための標識を兼ねており、視覚的にも非常に強い印象を与える編成でした。

戦場で赤一色の装いは、味方の士気を高めると同時に、敵にも強烈な印象を与えたことでしょう。山県昌景の名が後世まで広く知られる理由のひとつは、この赤備の鮮烈なイメージにもあるはずです。

元亀3年、三方ヶ原の戦いで先陣を担う

昌景が武田軍の中核を担っていたことをよく示すのが、元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いです。この戦いで武田信玄は2万5000の大軍を率いて甲斐を出発し、遠江に侵入しました。対する徳川家康は、織田信長からの援軍を合わせても1万1000ほど。兵力差のある中で対決することになります。

このとき武田軍の先陣は小山田信茂と山県昌景、二陣は武田勝頼と馬場信房、三陣が信玄、後陣が穴山梅雪という布陣だったとされています。

戦いは武田軍の圧勝に終わり、家康軍は完膚なきまでに打ち破られました。三方ヶ原の戦いは、家康の生涯でも屈指の大敗として知られますが、その勝利を支えた武田軍の先頭に山県昌景がいたことは、彼の武将としての力量を物語っています。

三方原古戦場

天正3年、長篠の戦いで戦死

山県昌景の最期は、天正3年(1575)の長篠の戦いにありました。長篠の戦いにおいて武田軍の先鋒は山県昌景であり、徳川軍に対して攻撃を開始しました。

長篠の戦いでは、織田信長・徳川家康連合軍が馬防柵を築き、鉄砲を組織的に用いて武田軍を迎え撃ちました。その結果、武田軍では山県昌景、内藤昌豊、土屋昌次らが討死しました。

この戦いは、織田・徳川・武田の勢力関係を大きく変えた戦いでした。とりわけ武田氏にとっては壊滅的打撃であり、昌景の死はその象徴ともいえる出来事でした。

長篠の戦いと「騎馬軍団」像について

長篠の戦いは、一般に「武田の騎馬軍団が信長の鉄砲隊に敗れた戦い」としてよく知られています。

一方で、『日本大百科全書』(小学館)は、信長が鉄砲を三段に構えて交替で一斉射撃を行ったという有名な説について、実技上の見地から疑問視する意見もあることを紹介しています。この点は、戦国合戦のイメージが後世の語りによって形づくられてきたことを考える上で非常に興味深いところです。

まとめ

山県昌景は、「赤備」を率いたことで有名です。その威容は後世の井伊直政の赤備にも影響を与えたとされています。

だからこそ、山県昌景の死は武田家にとって大きな損失でした。勇猛な武将として知られるだけでなく、戦国後期の軍制や戦い方の変化を考える上でも、昌景は非常に興味深い存在です。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)

 

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