はじめに-山県昌景とはどんな人物だったのか

山県昌景(やまがた・まさかげ)は、戦国最強と謳われた武田軍「赤備え(あかぞなえ)」の騎馬軍団を率いた武将として有名です。三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで、徳川家康と交戦し、家康を恐怖のどん底に落としたというエピソードは広く知られています。

そんな昌景ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、若い時から武田信玄を支えた筆頭の重臣。信玄より駿河進行の命を受け、家康を恐怖におののかせる人物(演:橋本さとし)として、描かれます。

目次
はじめに-山県昌景とはどんな人物だったのか
山県昌景が生きた時代
山県昌景の足跡と主な出来事
まとめ

山県昌景が生きた時代

昌景が活躍していた時は、鉄砲が普及していなかったこともあって、騎馬軍団が戦場において大きな存在感を示していました。昌景は戦国最強とも謳われる武田軍の騎馬軍団を率いて、さまざまな戦果をあげます。しかし、新兵器の鉄砲が登場した長篠の戦いで、昌景は敗れ去るのでした。

山県昌景肖像(『甲越勇將傳武田家廾四將』歌川国芳筆)

山県昌景の足跡と主な出来事

昌景の生年については不明です。生まれた年については諸説ありますが、永正15年(1518)とも享禄3年(1530)ともいわれています。没年は天正3年(1575)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

山県姓を名乗る

昌景は、武田氏の重臣である飯富虎昌(おぶ・とらまさ)の実弟で、当初は飯富源四郎(おぶ・げんしろう)という名前でした。昌景は若い時から信玄に仕えて、侍大将(さむらいだいしょう)や職(しき)をつとめました。20歳の時には信玄直属の旗本隊にも加わり、足軽150人の隊長に大抜擢されることも。

永禄8年(1565)、大きな転機が訪れます。信玄と親子仲の悪かった嫡男・武田義信(よしのぶ)が謀反を画策。義信の傅役(もりやく)だった兄・虎昌は連座して、謀反に加わることになったのです。

これを知った昌景は、陰謀に兄が関与しているのを承知の上で信玄に密告。謀反は未遂に終わり、首謀者の義信と虎昌は処刑されました。なお一説には、虎昌は謀反を阻止すべく、あえて昌景に計画を漏らしたともいわれています。

この功績によって、昌景は武田氏所縁の山県の姓を与えられることに。それと同時に、兄の部隊も引き受けることになり、「赤備え」として部隊の装備を赤く統一します。こうして、戦国最強と謳われる騎馬軍団「赤備え」を昌景は継承したのでした。

戦国最強と言われた「赤備え」を率いる。次ページに続きます

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