はじめに-福島正則とはどんな人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する福島正則(ふくしま・まさのり、演:松崎優輝)は、豊臣秀吉(演:池松壮亮)に幼少から仕え、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで「七本槍」の筆頭格として名をあげた武将です。勇猛な武辺者として知られる一方、検地や兵粮、領国経営にも関わった人物で、単なる豪傑としては片づけられない「奥行き」があります。

この記事では、福島正則が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。

『豊臣兄弟!』では、加藤清正(演:伊藤絃)と同様、秀吉に近習(きんじゅう)として仕えた、子飼いの家臣として描かれます。

福島正則
福島正則

福島正則が生きた時代

福島正則が生きたのは、織田信長の死後に羽柴秀吉が勢力を広げ、豊臣政権を築き、さらに徳川家康が実権を握っていく時代。戦乱の中で武功を立てて出世するだけでなく、領地を与えられた武将が大名として統治能力を問われる時代でもありました。

正則は、秀吉の近親にあたる家筋に生まれ、幼少から秀吉に仕えています。賤ヶ岳の戦いで名をあげたのち、伊予国(現在の愛媛県)、尾張国(現在の愛知県西半部)、そして関ヶ原後には安芸国(現在の広島県西半部)・備後国(現在の広島県東半部)へと転じ、大大名に成長していきます。

しかしその一方で、秀吉恩顧の武将として徳川政権のもとで微妙な立場にも置かれました。正則の人生には、豊臣から徳川へと移る時代の緊張が色濃く表れています。

福島正則の足跡と主な出来事

福島正則は生年が永禄4年(1561)で、没年が寛永元年(1624)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

尾張に生まれ、幼少より秀吉に仕える

福島正則は永禄4年(1561)、尾張国海東郡二寺村に生まれました。幼名は市松です。父は福島正信、母は豊臣秀吉の伯母にあたる木下氏と伝えられます。俗に桶屋の子ともいわれますが、これについては確証がないとされています。

正則は幼少から秀吉に仕えました。いわゆる子飼いの家臣でした。

天正6年(1578)、正則は秀吉の小姓衆として播磨国(現在の兵庫県南部)三木城攻めに従軍し、初めて功名をあげます。以後、因幡国(現在の鳥取県東半部)鳥取攻め、山崎の戦いと、重要な戦いに参加していきました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

賤ヶ岳の戦いで「七本槍」の筆頭格に

福島正則の名を決定的に高めたのが、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いです。正則はこの戦いで「一番槍、一番首」の殊勲を立てました。

いわゆる「賤ヶ岳七本槍」は秀吉子飼いの若武者たちの象徴として知られますが、正則はその中でも別格でした。他の面々が3,000石であったのに対し、正則は5,000石を与えられています。

このことからも、秀吉が正則に寄せていた期待の大きさがうかがえます。賤ヶ岳は、正則にとってまさに出世の原点でした。

七本槍古戦場賤ヶ岳
七本槍古戦場賤ヶ岳

紀州征伐から伊予国11万石の大名へ

賤ヶ岳の戦いの後も、正則は小牧・長久手の戦い、紀州征伐などで功績を重ねます。天正13年(1585)の紀伊雑賀攻めでは、和泉国(現在の大阪府南部)畠中城攻めに功を立て、一躍、伊予国11万石の大名となりました。湯築(ゆづき)城に入り、のちに今治に移ります。

この年、正則は従五位下左衛門尉に任ぜられています。若き武将が、秀吉のもとで急速に大名へ成長していく様子がよくわかります。

九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵へ

正則は天正15年(1587)の九州征伐にも従軍し、戦後は肥後国(現在の熊本県)の代官や検地奉行を務めました。さらに天正18年(1590)の小田原征伐では、伊豆韮山城攻めの先手となっています。

文禄元年(1592)からの朝鮮出兵では、竹島で代官を務め、兵粮輸送にも関わりました。ここにも、正則がただの猛将ではなく、兵站や管理の役目も担っていたことが見て取れます。

名護屋城跡の陣跡配置図では秀吉の名護屋城跡近くに「福島正則」の名が見える(赤枠で囲んだ部分)。

尾張清須24万石、秀吉に重く用いられる

文禄4年(1595)、豊臣秀次の処刑後、正則は尾張清須城主となり24万石を領しました。尾張が織田氏ゆかりの地であり、また秀吉にとっても正則にとっても故郷であることを踏まえると、この配置がいかに重視されていたかがわかります。

清須は関東に対する重要拠点でもありました。そこを任されたということは、正則が秀吉から強い信頼を受けていた証しでしょう。実際、正則は清須城の拡張や民政にも力を尽くしています。

石田三成排斥と関ヶ原への道

秀吉の死後、正則は石田三成と鋭く対立します。慶長5年(1600)の直前、正則は加藤清正、細川忠興らとともに三成を襲撃し、失脚に追い込んでいます。

さらに家康の会津征伐に従軍したのち、三成が挙兵すると、正則は率先して三成攻撃を主張しました。秀吉恩顧の武将でありながら、家康に属し、積極的に三成攻撃を主張したことが、のちに抜群の政治的功績となったとされています。

豊臣家の家臣でありながら徳川方につく。この選択は、正則のその後を決定づける大きな転機でした。

関ヶ原の戦いで東軍の先鋒として活躍

関ヶ原の戦いで、正則は東軍の先鋒を務めました。まず美濃国(現在の岐阜県南部)竹鼻城、ついで岐阜城攻略の中心となり、関ヶ原本戦でも宇喜多秀家・島津義弘の軍と戦っています。

この戦功により、正則は安芸・備後49万8,000石余の大封を与えられ、広島城主となりました。これは単なる恩賞というだけでなく、西国に押し込められた毛利氏を抑える意味合いもあったとされます。

つまり正則は、徳川政権にとっても西国支配の要となる大名に位置づけられたのです。

広島時代と、武辺だけではない一面

広島城主となった正則は、武勇だけの人物ではありませんでした。広島城主としての政治経済・文化政策からみると、実際の正則は能力のある優れた人物であったとされています。

また、正則は検地奉行や兵粮奉行を務めたことで知られており、さらに茶道にも通じていました。死後、遺物の中にきのめの肩衝やあふらの茶入などの名物が含まれていたことから、文化人としての一面がうかがえます。

正則は剛直で激しい気性を持ち、意に合わない人間に対しては大変攻撃的だったといいます。一方で旧誼を忘れず、気に入った相手には厚情をかける人物だったそうです。この人間味が、ある種、正則の魅力でもあったのでしょう。

改易と高井野での晩年

しかし、正則の晩年は、決して穏やかなものではありませんでした。元和5年(1619)、広島城修築の手続不備を咎められ、安芸・備後を没収されます。表向きは無届け修築の問題でした。内実は幕府旗本に対する傲慢な態度や、幕府に対する強硬な姿勢が、晩年の不遇を招いたと考えられています。

正則は信濃国(現在の長野県)川中島と越後国(現在の新潟県)魚沼の4万5,000石を与えられ、高井野邑(現在の長野県上高井郡高山村)に蟄居しました。

その後、寛永元年(1624)7月、高井野で没しました。享年64歳でした。

幕府検使の到着前に遺骸を火葬したため、残る遺領も没収され、福島家は大名としては終わりを迎えます。

まとめ

秀吉に育てられ、天下分け目では自らの判断で動き、その強い個性ゆえに晩年は不遇を迎えた、福島正則の生涯は、豊臣恩顧の武将たちが生きた時代の難しさをよく物語っているかのようです。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

note:@kyoto_monokaki Instagram:@kyoto_monokaki

肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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