はじめに-加藤清正とはどんな人物だったのか
加藤清正(かとう・きよまさ)は豊臣秀吉に幼少期から従い、賤ヶ岳の戦いで大きく活躍し「七本槍」の一人に数えられたり、築城の名手として熊本城を築いたりするなどの功績で頭角を現しました。その他、身につけていた長烏帽子形兜も有名ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、幼少期から秀吉に従ってきた豊臣家の名将で、後に、家康と親交を深め、ポスト秀吉時代のキーパーソン(演:淵上泰史)として、描かれます。
目次
はじめに-加藤清正とはどんな人物だったのか
加藤清正が生きた時代
加藤清正の足跡と主な出来事
まとめ
加藤清正が生きた時代
戦国時代、主君の身の回りの雑務を処理する役職を「小姓(こしょう)」と呼びました。有名な小姓には、織田信長に仕えた森蘭丸がいます。加藤清正も当初は豊臣秀吉の小姓として常にそばで仕え、そこから有力武将へと成長しました。
加藤清正の足跡と主な出来事
加藤清正は生年が永禄5年(1562)で、没年が慶長16年(1611)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
小姓から領主へ
清正は永禄5年に尾張(現在の愛知県名古屋市)に生まれます。豊臣秀吉と同郷で、幼少期から小姓として秀吉に仕えていました。
天正8年(1580)に播磨の神東(じんとう)郡120石を与えられ、鳥取城攻めや備中の冠山城攻め、山崎の戦いに参加しています。中でも、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで大活躍し、「七本槍」の1人に数えられました。賤ヶ岳の戦いでの功績で、近江・山城・河内など3000石の知行を得ます。その後の小牧・長久手の戦いでも活躍し、従五位下(じゅごいのげ)主計頭(かずえのかみ)に叙任されました。
天正15年(1587)の九州征伐では後備、肥後宇土(ひごうと)城番を勤めました。この頃の役職は兵粮方(ひょうろうかた)に関係するものであったようです。また、同じ時期に堺周辺の代官も兼務しています。
天正16年(1588)に、肥後で検地に反対する一揆が起き、現地の領主・佐々成政が処分された後、後任として肥後半国の領主兼豊臣蔵入地の代官として入りました。
大陸での戦闘
文禄年間の朝鮮出兵では、1万人を派兵。釜山に上陸後、あっという間に都である漢城(今のソウル)に到達し、一気に北部の会寧(かいねい)にまで進みました。さらに、朝鮮王朝に不満を持つ一派の協力によって、朝鮮の王子2人・臨海君(りんかいくん)・順和君(じゅんなくん)を捕虜にすることに成功。国境を越えてオランカ(現ロシア領)にまで進撃しました。
しかし、オランカまで進んだところで大陸の広さに驚き、次第に明の征服は困難であると考えるようになっていったようです。また、地元住民の抵抗運動も強まり、状況は厳しくなる一方でした。
その後、日本軍が敗退したという連絡を受け、漢城に戻るも石田三成・小西行長らによる和平が進められており、主戦派だった清正は孤立します。やがて講和を妨害していると見なされ、慶長元年(1596)に伏見にて蟄居を命じられました。その後、京畿で大地震が起きた際に、伏見城修復のために一番早く普請に駆けつけたことから蟄居が解かれたとされています。
慶長年間に再び朝鮮への派兵が行われ、清正は1万人を率いて再度朝鮮に渡りました。この時は明軍の急襲を受け、蔚山で激しく交戦、九死に一生を得ます。蔚山の戦いでは、明と朝鮮の軍に包囲され、一時は降伏や死をも覚悟したとか。
【帰国から死去まで。次ページに続きます】