暮らしを豊かに、私らしく

2022年、長年在籍していたTBSを50歳で退職し、現在はフリーランスアナウンサーとして活躍中の堀井美香さん。ますます活動の幅を広げ、自分の想いに素直に、そしてしなやかにセカンドステージへと歩を進めはじめた堀井さんが語る「ひとり時間の持てた今だから味わえるひととき」を隔月でお届けします。

【私をつくる、ひとり時間】
第3回 物事を始める理由は、単純で頼りなくたっていい

文・堀井美香

偶然ネットで見つけた予約ボタンを、私は無意識に押していました。数々のアーティストが絶賛し、故郷秋田に鎮座する芸術劇場「ミルハス」。800人が入る会場は大きすぎないか、身の程知らずではないのか、様々な心配事は一旦棚上げし、「堀井美香一人朗読会」の申請書を、まるで他人事のように出しました。

こうして、なんの確証も後ろ盾もないままスタート地点に立ち、ハッと我に帰ったのは、随分たってからだったと思います。そこからの自分の行動はよく覚えていません。他にスタッフもいないから、満載のタスクを次から次へと一人で片付ける日々。演出家やピアニスト、舞台照明、音響との内容確認、リハーサルの調整。プレイガイドとの契約や座席の分配。ポスターやチラシの作成。各媒体の取材対応に会場と動線の確認に安全管理。そして同行する人たちの秋田までの交通手段やホテルの確保等々。

一つ解決すると、また一つ。毎日毎日誰かとメールをし、夜明けまで作業を続けました。

マネージメントや雑務、朗読練習……本番に向け、準備に奔走した日々

私が朗読会『yomibasho.vol3 朗読会『母』-小林多喜二と母セキ-』の会場を予約した8月26日は、静かな秋田に60万人が押し寄せる大きな花火大会があり、県民の誰もがイベントの開催を控える特異日です。自分の会にお客様は来てくださらないかもしれない。でももし、世界中の人たちがその花火大会に行き、観客が親戚や友達だけでもいいではないか。来てくれた人に最高の時間をプレゼントしよう。そう思うと私は、時間の許す限り、これでもかと準備をしたのです。

スクリーンに映し出すサンドアートの演出を考え、お祭りみたいに物販や募金のコーナーの設置も進め、新たな仕掛けを欲張って追加し、自分で種を撒きまくり、自分の首もどんどん締めていきました。

お土産には、紅白饅頭を用意しました。小さい頃、お祝いの日に学校で配られる紅白饅頭が大好きでした。「祝」の文字が印字されてある白とピンクのお饅頭。母が「ミカちゃんが頑張ったからお饅頭が貰えたんだよ」と褒めてくれて、家族みんなで切り分けたことを覚えています。紅白饅頭はご褒美の印、紅白饅頭をもらった時のなんとも言えない誇らしく幸せな気持ち。その気持ちを来てくださった方と共有したくて、周りの反対を押し切り、800個、赤字覚悟で用意もしました。

マネージメントや雑務の他に、演者としての時間も必要です。今回は約2時間に渡る作品の暗記。記憶力の無さに定評のある私には、これがまた苦行でした。台本を書き写した単語カードをめくり、電車の中で、仕事場でブツブツ唱え、身振り手振り感情をあらわにしながら歩く毎日。51歳のおばさんが独り言を言いながら、泣いたり怒ったりしている姿はさぞかし恐ろしく、奇行にしか見えなかったことでしょう。でも周りのことを顧みる余裕なんてなかったのです。

セリフが体に入ってからは、市民会館の練習室で声を出し、すぐエネルギー切れする自分の体を鼓舞するように、毎日ハイカロリーの丼をかっ込み、筋トレをし、ただひたすらに、がむしゃらに、私は朗読会へと向かって行きました。

見切り発車の企画、私を突き動かし続けたあの食べ物

そして迎えた朗読会当日。800人のお客様の前で、それまで貯めてきた全てを舞台で吐き出しました。長い準備に比べれば、舞台での2時間は、ほんの一瞬のことだった気がします。

正直、よく一人で頑張ったなと思います。あの日見切り発車で会場を押さえてから、事務仕事に奔走したり、台詞の量に途方にくれたり、普通に通常の仕事もあって、疲れて体が動かないこともありました。

でもそんな時、何が私を突き動かしたのか。何がゴールへと導いたのか。
誰にも言わなかったけれど、呆れられるかもしれないけれど、半年間という格闘の先にあったもの。
誰かに褒められたいからでも、自己成長をめざしてでもない境地。
そう、それは、すべてが終わった後に楽屋で食べる、あの「紅白饅頭」だったのです。

全身全霊で挑んだ舞台がまさか饅頭に奮い立たされたものであると、あの会場の誰が気付いたでしょうか。

高次の欲求を超える、単純で頼りない、でも幸せな私の欲求

管理職をしていた頃、マズローの5段階欲求というものを学びました。人の欲求は、食べたい寝たいという生理的欲求に始まり、満たされるごとに、安全性の欲求、社会的欲求、承認欲求へと進んでいく。そのピラミッド型の頂点が自己実現欲求である。この高次な精神的欲求が個人の能力を最大限に引き出すのだと。

でもあのときの自分は、そんな成熟した自我の体得とは程遠い、終わってお饅頭を食べるという、極めて低次な生理的欲求を求めていたのです。準備に練習にと極限の中にあって、いつからか想像していたのは、すべてが終わり安堵してお饅頭を口にする自分の姿。それはご褒美の紅白饅頭を頬張った子どもの頃の自分と重なりました。

まさか、高次の自己実現の霞を見たあとに、饅頭のためという物質的利己的な欲求の第一段階にもどるとはマズローもびっくりの現象でしょう。承認欲求とか、自己実現とか、なんだかわかりにくいものでなく、私がやるこれから全てのことはただ一つ、一服のご褒美のため。そんな単純で頼りない理由でいいのではないかとも考えるのです。

写真 キム・アルム(@ahlumkim

堀井 美香(ほりい・みか)
1972年生まれ。2022年3月にTBSテレビを退社。フリーランスアナウンサーとして、ラジオ、ナレーション、朗読、執筆など、幅広く活動中。
HP:https://www.yomibasho.com/
Instagram:@horiimika2022
Twitter:@horiimikaTBS

 

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