はじめに-丹羽長秀とはどんな人物だったのか

丹羽長秀(にわ・ながひで)は、織田信長に仕え、主要な戦いのほとんどに参加しました。信長から「友であり兄弟」と言われるほど信用され、織田四天王の一人として有名な人物です。

そんな長秀ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、柴田勝家とともに「織田家の双璧」と呼ばれるほどの重臣であり、本能寺の変の後に開かれた清須会議では、信長の孫である三法師を後継者として支持する秀吉の側につく人物(演:福澤朗)として、描かれます。

目次
はじめに-丹羽長秀とはどんな人物だったのか
丹羽長秀が生きた時代
丹羽長秀の足跡と主な出来事
まとめ

丹羽長秀が生きた時代

戦国時代では、敵との内通や裏切りは珍しいことではなく、主君と家臣の間の主従関係は絶対的なものではありませんでした。

主君と家臣の関係は基本的に「御恩と奉公」であり、主君が恩賞として家臣に土地を与えることで成り立っていたので、それができなくなると主従関係が崩れていきます。

これらのことを考慮すると、主君と家臣の関係はある意味ドライなものだったと言えるでしょう。そんな時代状況であるにもかかわらず、丹羽長秀は信長から「友であり兄弟」と言われるほど、深く信頼されていました。

丹羽長秀像(東京大学史料編纂所蔵)

丹羽長秀の足跡と主な出来事

丹羽長秀は生年が天文4年(1535)で、没年が天正13年(1585)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

信長の家臣時代

長秀は尾張出身で、丹羽長政の子として天文4年(1535)に生まれました。幼名は万千代。父・長政の死後、信長に仕えるようになり、信長の養女と結婚しています。

長秀は「織田四天王(柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀)」の一人に数えられ、信長から「友であり兄弟」と言われるほど深く信頼され、また大いに活躍しました。信長の主要な戦いのほとんどに参戦しています。

元亀元年(1570)の姉川の戦いでは徳川家康の軍を助け、元亀2年(1571)には、浅井氏の家臣が立てこもる近江の佐和山城を攻め落としました。

佐和山城跡。近江の要衝を守る城として重視され、さまざまな大名が争奪戦を展開しました。

天正元年(1573)には、信長の命を受けて琵琶湖で使う大型船を建造。天正3年(1575)惟住(これずみ)の姓を与えられています。天正4年(1576)には、安土城の普請の指揮もとりました。天正9年(1581)に京都で行われた軍事パレードである「京都御馬揃え」では、一番手として入場するなどその存在感を示しています。

これら以外にも、北陸の一向一揆の鎮圧、松永久秀の攻撃、光秀を助けての丹波攻め、秀吉に従っての播磨三木城包囲など数々の戦に参加しています。

清洲会議で秀吉に味方。次ページに続きます

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