はじめに-織田信秀とはどんな人物だったのか

織田信秀は、室町時代末期に活躍した武将です。戦国時代に革命をもたらした天下人・織田信長の父としてもよく知られています。尾張国(現在の愛知県西部)の下級武士であったにもかかわらず、先見の明で着々と勢力を拡大し、尾張国を繁栄の道へと導きました。

美濃国(現在の岐阜県南部)の斎藤道三(どうさん)や駿河国(現在の静岡県)の今川義元などの強敵と、勢力拡大を求めて抗争を繰り広げました。頑固一徹というイメージを持たれていますが、実際の織田信秀はどのような人物だったのでしょうか? 忠実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、息子の信長にも大きな影響を与え、織田家繁栄の基礎を築いた勇猛果敢な戦国武将(演:藤岡弘、)として描かれます。

目次
はじめに-織田信秀とはどんな人物だったのか
織田信秀が生きた時代
織田信秀の足跡と主な出来事
まとめ

織田信秀が生きた時代

織田信秀は、室町幕府が政権を担っていた永正8年(1511 ※生年については諸説あり)に生まれます。信秀が生まれた頃の尾張国は、将軍の補佐を担当した管領(かんれい)の一人である斯波(しば)氏が、守護として治めていました。しかし、応仁元年(1467)に勃発した「応仁の乱」以降勢力が衰え、これをきっかけに守護代の織田氏が台頭することになるのです。

尾張国での覇権争いの末、信秀の父・織田弾正忠(だんじょうのちゅう/だんじょうのじょう)信定が盤石な経済基盤を手にすると、信秀はこれを活かしてさらなる勢力拡大を目指すことに。その生涯は、まさに群雄割拠の時代に彩られたものでした。

織田信秀の足跡と主な出来事

織田信秀は、永正8年(1511)に生まれ、天文20年(1551)に没しました(※生没年については諸説あり)。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

織田信秀木像
織田信秀木像(萬松寺所蔵品)

織田弾正忠信定の子として生まれる

信秀は、尾張国の守護代を務めていた織田弾正忠信定の嫡男として生まれます。尾張国の守護を務めていた斯波氏が失脚したことで、守護代の織田氏が台頭することになりましたが、清洲(きよす)織田氏と岩倉城の織田伊勢守(いせのかみ)が尾張半国をそれぞれ支配し、覇権争いに発展。

信秀や息子の信長の家系である織田弾正忠は、清洲織田氏を支える清洲三奉行の分家で、いわゆる下級武士の家柄とされていました。しかし、信秀の父・信定が、日本有数の貿易港・津島湊を掌握したことで状況は一変。信定はこの近辺に勝幡(しょばた)城を築き、信長に至るまでの経済的基盤を作り上げることに成功しました。

信定が築いた勝幡城はのちに信秀の居城となり、信長もこの城で生まれたと言われています。

経済力と先見性をもとに勢力拡大

信定から家督を継いだ信秀は、父が築き上げた経済的基盤と鋭い洞察力を活かし、徐々に勢力を拡大することに。天文7年(1538)頃、今川義元の弟・今川氏豊(うじとよ)の居城であり、のちの名古屋城になる那古野(なごや)城の攻略に成功します。

江戸時代に編纂された国史『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』が元となって生まれた『続群書類従』に、信秀の那古野城攻略の様子を記した『名古屋合戦記』という戦記がまとめられています。

この戦記には、連歌が大好きな今川氏豊の歌仲間として友好的に接した信秀が、城に宿泊した際に仮病を使って氏豊やその家臣らを心配させ、その隙に用意していた軍勢を城内に入れて乗っ取るという奇策で、那古野城を攻略したという逸話が残されています。氏豊が少々不憫ですが、勢力拡大に対する信秀の熱意を感じ取ることができるのではないでしょうか。

さらにその翌年、現在の名古屋市にあたる場所に古渡(ふるわたり)城を築き、門前町として栄えた熱田湊の掌握に成功したことで、ますます勢力を拡大することに。また、朝廷や幕府に対する莫大な献金など、中央権力へも積極的に接近し、関係を深めていきました。

古渡城跡地
古渡城の跡地

危機一髪の「尾張の虎」

着実に勢力を拡大し、「尾張の虎」という異名を持つまでに成長した信秀。「美濃のマムシ」と恐れられた美濃国の斎藤道三や、三河の統一を果たした家康の祖父・松平清康(きよやす)、駿河国の有力な戦国大名・今川義元などの強敵と互いに勢力を競い合う、群雄割拠の時代へと乗り出していきます。

天文4年(1535)、松平清康は信秀と戦うために斎藤道三や今川氏と同盟を組み、信秀の弟・織田信光の居城である守山(もりやま)城に出陣します。信秀は以前も清康に支城を奪われており、まさに崖っぷちの状況でした。しかし突然、清康が家臣によって惨殺されるという事件が起こります。

「守山崩れ」と呼ばれるこの事件の原因は、清康軍の内部分裂とされていますが、これで一気に形勢逆転。信秀は、内紛が続く松平氏の領地に攻め入り、安祥(あんじょう)城を攻略します。松平氏は援軍の見返りとして、今川氏に6歳の竹千代(のちの家康)を人質として送りますが、途中で家臣に裏切られ竹千代は織田氏のもとへ売り飛ばされてしまいます。

こうして、信秀はまだ幼い竹千代を人質として預かることになりました。

宿敵・斎藤道三との和睦

信秀は、道三と幾度も交戦しています。しかし、天文16年(1547)の「加納口(かのうぐち)の戦い」で、道三の策略にはまって大敗を喫すると、道三と和睦する道を選びます。天文17年(1548)、信秀は息子の信長と、道三の娘・濃姫を結婚させ、道三との和睦に成功しました。

伝織田塚改葬地
織田軍の戦没者を弔う伝織田塚改葬地(円徳寺境内)

二人の結婚に関して、このような逸話があります。道三が、濃姫に対して「信長が本当に大うつけならば、これで命を奪え」と小刀を渡したという話です。道三は、周囲から大馬鹿者と思われていた信秀の息子・信長のことを、武将として多少興味深く捉えていたのではないかと思わせますね。

戦い続けた信秀の最期

道三との和睦が成立した同年、今川氏が安祥城に攻め入り、城内にいた信秀の庶子・織田信弘が人質として捕らえられてしまいます。安祥城は今川氏に奪われてしまいますが、竹千代を送るという条件で信弘を無事に返してもらい、ここに今川氏との和睦も成立したのです。

しかし、この頃から信秀は病に伏せるようになりました。数年の闘病生活を送ったのち、天文20年(1551 ※没年については諸説あり)、ひたすら戦い続けた41歳の生涯に幕を閉じることになったのです。

まとめ

戦国の動乱期に生きた織田信秀。数々の危機に見舞われながらも、盤石な経済力と優れた先見性で織田家繁栄の基礎を築きました。強敵相手でも諦めずに最後まで戦う姿は、信長に多大な影響を与え、彼が天下人となりえた所以にもなっているのではないでしょうか。

下級武士から一転、尾張国の覇者となった信秀は、今日の私たちにも夢と希望を与え続ける武将の一人であると言えるでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB:Facebook

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)

 

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