秀吉に従う
天正10年(1582)、本能寺の変が起きた際には、四国に向かうべく大坂にまで出陣していましたが、中国攻めで備中から引き返してきた秀吉と合流・連携し、山崎の戦いで光秀を敗走させました。その後開かれた清須会議では、信長の後継者にその孫の三法師を推した秀吉を支持。さらに若狭一国と近江国滋賀・高島の二郡を領することになり、大溝に居城しました。
翌年の天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは、秀吉に味方。戦果を上げて秀吉の勝利に貢献しました。この時、大軍を率いて勝家を追撃し、越前北庄城へ追い詰め勝家は自害。また、勝家に加担した佐久間盛政らを拘束して、秀吉に送還しました。戦後、越前国の大半と加賀国能美郡が与えられて、北庄(福井市)に移ることに。
秀吉は「羽柴」の姓を名乗っていたことがありましたが、これは「丹羽」「柴田」から一文字ずつとったもの。この事実からわかるように、秀吉と長秀の関係は深く強いものでした。長秀は晩年病にかかり、それが原因で天正13年(1585)に亡くなってしまいますが、この時、秀吉は医師・竹田定加を派遣し、長秀も秀吉宛に遺書を書いて形見の品を贈り、子の長重のことを委任。両者はお互いを信頼し、強い結びつきがあったことがわかります。
長秀の死にまつわるエピソード
長秀の死については、いくつものエピソードが残されています。
例えば『多聞院(たもんいん)日記』には、病気で死ぬのは無念であるからと腹を切った、という関係者からの情報がまとめられています。他にも、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には、腹を切った際に腹の中から石亀に似て鳥のようなくちばしを持つ虫(寄生虫の可能性あり)が出てきたとも。さらには、そのような死を選んだのは秀吉に抗議するためだという説もあります。死にまつわる話はいろいろあるものです。
まとめ
信長の宿老だった丹羽長秀は、織田四天王の一人として信長を大いに支えました。また、信長の死後は秀吉につき、天下統一に重要な役割を果たすことに。信長からも秀吉からも深く信頼されて、その有能さをうかがいしれます。明智光秀のように反旗を翻すこともなく、柴田勝家のように争って自害することもなく、天下人を助けて乱世を生き抜いた長秀の生き様からは、いろいろな学びがあるのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)