はじめに-「清洲会議」とはどんな出来事だったのか?

「清洲会議」とは、織田家に仕える諸将たちが「本能寺の変」後の事態収拾のために行った会議のことです。天正10年(1582)に起こった「本能寺の変」では、信長だけでなく、長男・信忠(のぶただ)も自害へと追い込まれました。

突然の出来事に、織田家の諸将たちは動揺……。しかし、一刻も早く事態を収拾し、信長の遺志を継ぐ後継者を決定しなければならなかったのです。秀吉と柴田勝家の意見が食い違い、のちに勃発する「賤ケ岳の戦い」のきっかけにもなった「清洲会議」。どのような会議だったのかについて解説していきます。

目次
はじめに―「清洲会議」とはどんな出来事だったのか?
「清洲会議」はなぜ行なわれたのか?
関わった人物
「清洲会議」の内容と結果
その後
まとめ

「清洲会議」はなぜ行なわれたのか?

天正10年(1582)明智光秀の謀反により、信長とその長男・信忠が自害へと追い込まれました。後継者不在となってしまった事態を収拾するべく、織田家の諸将たちは話し合いをすることに。そして、「本能寺の変」発生から間もない同年6月27日に、清洲城(現在の愛知県清須市にあった城)にて会議が開かれたのです。

清洲城模擬天守(愛知県清須市)

関わった人物

では、「清洲会議」に関わった主な人物についてご紹介します。

羽柴(豊臣)秀吉

豊臣秀吉

農民の出身にも関わらず、優れた行動力と才覚によって大出世を果たした三英傑の一人。「清洲会議」では、信長の孫・三法師を後継者に推薦し、柴田勝家と対立することに。

柴田勝家

柴田勝家

信長の妹・お市の方を娶り、信長第一の将として功績をあげた戦国大名。「清洲会議」では、信長の三男・信孝(のぶたか)を後継者に推薦し、三法師を推す秀吉と対立した。ちなみに、信孝には光秀討伐に加わった功労がありました。

丹羽長秀

丹羽長秀

信長に仕えた戦国武将で、「山崎の戦い」にて秀吉とともに光秀を滅ぼし、敵討ちを成功させた。「清洲会議」では、秀吉の主張に同調したとされる。

池田恒興

生母が信長の乳母を務めていたこともあり、信長の重臣として仕えるようになった武将。「清洲会議」では、信長の敵討ちを成功させた秀吉の主張に反対しなかったとされる。

「清洲会議」の内容と結果。次ページに続きます

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