はじめに-徳川家康の「高天神城攻め」とはどんな戦いだったのか
「高天神(たかてんじん)城攻め」とは、天正9年(1581)に、徳川家康が武田勝頼から高天神城を奪取した戦いのことです。永禄3年(1560)、「桶狭間の戦い」にて今川義元が討たれたことで、今川氏は没落。旧今川領は、三河国の徳川氏と甲斐国の武田氏によって、分割されることとなりました。
その後、さらなる勢力拡大を狙う両者が目をつけたのは、遠江(とおとうみ、現在の静岡県西部)でした。そして、両者は遠江での影響力を強めるために高天神城の攻略を試み、熾烈な争いを繰り広げることとなったのです。
一時は勝頼に城を奪われ、悔しい思いをした家康。天正9年(1581)に起こったこの戦いは、家康にとってリベンジとも言える戦いでした。「高天神城攻め」がどのような戦いであったかについて、家康に焦点を当てて解説します。
目次
はじめに―徳川家康の「高天神城攻め」とはどんな戦いだったのか
「高天神城攻め」はなぜ起こったのか
関わった人物
この戦いの内容と結果
その後
まとめ
「高天神城攻め」はなぜ起こったのか
遠江での勢力拡大をめぐって、激しい争いを繰り広げた家康と武田氏。特に、戦略的な拠点に位置していた高天神城は、「高天神城を制する者は遠江を制する」と言われるほど、重要視されていた城でした。そのため、高天神城を手に入れるために、両者は長きにわたって攻防戦を繰り広げることとなったのです。
関わった人物
では、「高天神城攻め」に関わった主な人物について、紹介します。
徳川方
・徳川家康
岡崎城主・松平広忠の子として生まれ、幼少期を織田氏・今川氏の人質として過ごす。一時は城を勝頼に奪われるも、高天神城の攻略に成功し、遠江を手中に収めることに成功する。
・織田信長
尾張国出身の戦国大名。「高天神城攻め」では家康を支援し、武田討伐を本格的に開始することとなった。
武田方
・武田信玄
戦国最強と名高い、甲斐国の戦国大名。高天神城の攻略を目論むも苦戦し、息子の勝頼に託すこととなった。
・武田勝頼
信玄の息子で、甲斐国の戦国大名。信玄から家督を相続し、高天神城の攻略に成功するも、家康に奪い返されることとなった。
この戦いの内容と結果
永禄12年(1569)、家康が越後国の上杉謙信と盟約を結んだことを知った信玄。翌年の元亀元年(1570)、本格的に遠江への侵攻を開始することになりました。信玄は、約2万の大軍を率いて高天神城を攻略しようとしましたが、近くで小競り合いを行なっただけで、甲斐へと戻ることに。
高天神城は、周囲を切り立った崖に囲まれた天然の要害であるため、力ずくで落城させるのは不可能と悟ったのだと考えられます。しかし、その後も信玄は高天神城を虎視眈々と狙い続け、家康と武田氏の高天神城をめぐる争いは、信玄の死後も続くことになったのです。
信玄の死後、武田家の家督を継いだ勝頼は、天正2年(1574)12月、大軍を率いて高天神城を包囲。高天神城の城主であり、今川氏から徳川氏の家臣となった小笠原長忠(ながただ)は、浜松城へ援軍を要請しました。
これを受けた家康は、信長にも援軍を要請しますが、高天神城への武田氏の猛攻は止まりませんでした。高天神城を手に入れることが最大の狙いだった勝頼は、小笠原長忠に対し、開城すれば城兵も含めて誰の命も奪わないと約束します。長忠はこれを承諾し、高天神城は武田氏のものとなったのです。
勝頼が高天神城を手に入れたことで、家康は遠江での影響力を弱めてしまうことになりました。新たな要所を築く必要性を感じた家康は、横須賀城(現在の静岡県掛川市にあった城)のほかに、小笠山砦や三井山砦など、計6つの砦を築きます。
一時は武田氏の勢力に圧された家康でしたが、天正3年(1575)の「長篠の戦い」にて武田氏を破ったことで、攻勢に転ずることに。その後、武田氏と敵対していた北条氏と同盟を結び、本格的に高天神城攻めを開始します。
【武田氏滅亡へ。次ページに続きます】