はじめに-徳川家康の「長篠・設楽原の戦い」とはどんな戦いだったのか

長篠・設楽原の戦いとは、天正3年(1575)に、武田勝頼(たけだ・かつより)と徳川家康・織田信長が三河の長篠城・設楽原で衝突した合戦のことです。

勝頼が家康の長篠城を包囲したことに発端し、包囲された長篠城を救援すべく赴いた家康・信長の軍勢が設楽原にて武田軍と交戦しました。

この戦いの中で、鉄砲が本格的に使われ、その後の戦闘形態の変化に大きく影響しました。また、この戦いに敗れた武田氏は急速に弱体化し、滅亡への道をたどることになります。

『長篠合戦図屏風』の一部(徳川美術館蔵)

目次
はじめに-徳川家康の「長篠・設楽原の戦い」とはどんな戦いだったのか
「長篠・設楽原の戦い」はなぜ起こったのか
関わった人物
この戦いの内容と結果
「長篠・設楽原の戦い」の後
まとめ

「長篠・設楽原の戦い」はなぜ起こったのか

天正元年(1573)に武田信玄が病死すると、家康が三河の長篠城を包囲します。長篠城自体は規模も小さく、屋根も藁葺であるなど質素なものでしたが、信濃と三河とを結ぶ交通の要衝にあり、重要な城でした。

長篠城跡の石碑(愛知県新城市)

家康の包囲によって長篠城の防衛隊は降伏し、長篠城は家康に属すことになりました。そして、天正3年(1575)には武田の家臣であった奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)をその城主とします。

この時、信昌は徳川側についたことで、武田方に人質となっていた妻を処刑されてしまいました。

信玄の跡を継いだ勝頼は、徳川方の高天神(たかてんじん)城を陥落させ、ついに長篠城を包囲するに至ります。しかし、城の守りは固く、なかなか降伏しません。

高天神城跡(静岡県掛川市)の様子。小高い山の上に城がありました。当初、高天神城攻略に成功した勝頼は高く評価されます。

そこで、勝頼は長篠城付近に布陣し、長期戦に移行。長篠城内では食糧が枯渇し、陥落も間近となった時に信昌は、鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)を派遣し、家康に援軍を要請します。

この要請を受けて、家康と信長は援軍の派兵を決定。そして、設楽原にて武田軍と衝突することになるのです。

関わった人物

次に、長篠・設楽原の戦いにおける主要な人物について紹介します。

徳川・織田方

・徳川家康 

三河の小大名・松平氏に生まれ、幼年時代は今川氏の人質となります。三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで武田軍に大敗北を喫しますが、長篠・設楽原の戦いで武田軍に大勝し、雪辱を果たすことに。

・織田信長 

織田信長

尾張の戦国大名として、勢力を急拡大。家康とも手を組み、次々と他の戦国大名を滅ぼします。長篠・設楽原の戦いでは、銃を本格的に実戦導入。

・奥平信昌

もとは武田の家臣。家康により長篠城主となります。最後まで城を守り抜き、家康・信長連合軍の勝利に大きく貢献しました。

・鳥居強右衛門

家康に援軍を要請するための使者として、信昌によって送り出されます。無事、救援要請の任務を果たすも、武田に捕まってしまいます。城外からの決死の叫びが、味方を奮い立たせることに。

武田方

・武田勝頼 

亡き信玄の跡を継いだ若きリーダー。長篠・設楽原の戦いでは大敗し、武田氏の滅亡のきっかけを作ります。

・山県昌景

若い時から武田氏に仕えた筆頭の重臣。戦国最強の騎馬軍団と呼ばれた「赤備え(あかぞなえ)」を率いて戦うも、長篠・設楽原の戦いにて戦死します。

この戦いの内容と結果。次ページに続きます

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