はじめに-徳川家康にとって「姉川の戦い」とはどんな戦いだったのか
「姉川の戦い」とは、元亀元年(1570)6月に、近江国(現在の滋賀県)の姉川流域にて、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が一線を交えた戦いです。自身を裏切った浅井長政に対する、信長の報復戦とも言われるこの戦い。信長からの援軍要請を受け、家康も加勢することとなりました。
「姉川の戦い」と言えば、どうしても信長と長政に焦点が当てられがちですね。しかし、家康にとっても、天下統一に向けて大きく前進するきっかけとなった重要な戦いであると言えるでしょう。「姉川の戦い」がどのような出来事だったのかについて、家康に焦点を当てて、解説していきます。
目次
はじめに-徳川家康にとって「姉川の戦い」とはどんな戦いだったのか
「姉川の戦い」はなぜ起こったのか
関わった人物
この戦いの内容と結果
姉川の戦い、その後
まとめ
「姉川の戦い」はなぜ起こったのか
北近江(現在の滋賀県北東部)の戦国大名・浅井長政が勢力を拡大していた頃、美濃国(現在の岐阜県)の斎藤氏攻略に手を焼いていた信長。長政と協力することで、斎藤氏を挟み撃ちできると考え、永禄10年(1567)、長政に対して同盟を提案することに。
一方、かねてより恩義があった朝倉家と織田家が不仲であるということもあり、どうすべきか悩んだ長政。しかし、尾張国の権力者である信長と手を組むことは悪い話ではなかったため、朝倉家を攻撃しないことを条件に、同盟を受け入れることにしました。この同盟が功を奏し、信長は念願だった斎藤氏攻略に成功するのです。
勢いづいた信長は、自身の権力を誇示するとともに、さらなる勢力拡大のため、足利義昭を擁立して上洛します。
そして、新たに将軍職に就いた義昭に挨拶するようにと、信長は諸大名にも上洛を要求しました。しかし、越前国(現在の福井県)の戦国大名・朝倉義景はこれを拒否。自身の命に背いた義景に腹を立てた信長は、長政との約束を破り、朝倉征伐に乗り出したのです。
「信長や家康による連合軍が朝倉領の金ヶ崎城を攻略した」という知らせを耳にした長政は、同盟を結んだ信長に味方するか、それとも親交のある朝倉氏を味方するかという究極の選択を迫られることになります。悩み抜いた末、信長に反旗を翻すという選択をしました。
信長と家康は「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる撤退戦にて、絶体絶命の状況にまで追いつめられます。信頼していた長政のまさかの裏切りに激怒した信長は、家康にも援軍要請をして、長政に報復することを決意したのです。
関わった人物
では、姉川の戦いに関わった主な人物についてご紹介します。
織田方
・織田信長
尾張国(現在の愛知県)出身の戦国大名。同盟を結んでいたはずの浅井長政に裏切られ、窮地に追い詰められることに。しかし、命からがら逃げ延びることが出来ました。
・徳川家康
三河の小大名・松平氏に生まれ、幼年時代は隣国である駿河の大名・今川氏の人質となります。姉川の戦いでは、劣勢に立たされていた信長を救い、さらに武名をあげることに。
・榊原康政
松平家の陪臣・榊原長政のもとに生まれます。姉川の戦いでは、家康を最後まで支え続け、家臣として深く信頼されるように。
浅井方
・浅井長政
北近江出身の戦国大名。同盟を結んでいた信長を裏切り、姉川流域にて信長と家康の連合軍と対峙することに。
・朝倉義景
越前国の戦国大名。織田家とは元々仲が悪かったということもあってか、信長からの上洛要請を聞き入れようとしませんでした。結果として、信長と長政の同盟関係を崩すきっかけを作ることになります。
【この戦いの内容と結果。次ページに続きます】