高天神城で散る
しかし、やがて武田家も没落していくことになります。
天正9年(1581)には、高天神城で再び戦いが勃発。家康が一度、武田に奪われた城を奪還するための戦いでした。天正3年(1575)の長篠の戦いで武田に圧勝した家康は、次第に反攻に転じ、高天神城にまで押し返していました。家康は高天神城の周囲に6つの砦を築いて、城を完全に包囲。兵糧攻めを実行します。
窮地に陥った元信は武田勝頼に救援を求めますが、武田の背後にいる北条氏の動きもあり、援軍を送るだけの余裕はありませんでした。また元信は、家康に対しては「降伏したい」と矢文を送りましたが、家康はそれを許さなかったと言います。いよいよ食料が尽き、餓死者が出始めると、元信は全滅覚悟での敵への突撃を決定したのです。
これに際して、ある逸話が残っています。徳川軍に幸若舞(こうわかまい)の名手・与三太夫がいることを知った武田軍は、人生の見納めにと「幸若舞を見たい」と願い出ました。兵士らの覚悟を悟った家康はこれを聞き入れ、高天神城の堀外にて「高館」の舞を演じさせます。城兵たちは身を乗り出して舞を見、涙を流していたとも言われます。
翌日の3月22日、元信は最後の戦いに挑みます。高天神城の門を一斉に開け放ち、城にいた約900名は徳川軍に突撃。戦いは苛烈さを極め、死者730余名が堀に埋まったとも言われています。戦闘後、家康は城内を検視し、城郭を焼き払い浜松城へ引き上げていきました。
なお、武田方の横田甚五郎(よこた・じんごろう)は城の様子を勝頼に報告する命を受けて、「犬戻り猿戻り」と呼ばれる険しい道を辿って、なんとか脱出に成功しています。
この落城に際して、城の牢屋に7年間幽閉されていた大河内政局(おおこうち・まさふさ)が発見・救出されています。政局は、天正2年(1574)に勝頼によって高天神城が攻略された際に、勝頼の命に服さなかったことで石窟の牢屋に幽閉されていたのです。救出時には歩くこともできないほど、衰弱していたとか。家康はそんな政局に対して、温泉で休養をとるよう伝えたそうです。
高天神城での敗北で、勝頼の求心力は急速に低下。次々と家臣たちは勝頼から離れていきました。孤立した勝頼は、一族とともに自害、ここに武田家は滅亡したのです。
そして戦後、高天神城はその戦略的価値を失い、家康は建物を破却。こうして、廃城になったのでした。
まとめ
岡部元信は優れた武将として今川家・武田家に仕えました。しかし、最後は高天神城を包囲されて、討死します。元信の生き様から、「優秀であるからといって最後まで生き延びるとは限らない」という戦国の世の厳しさが伝わってきます。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(講談社)
掛川市公式ホームページ
藤枝市郷土博物館ホームページ
高天神城ホームページ