はじめに-佐久間信盛とはどんな人物だったのか

佐久間信盛(さくま・のぶもり)は、織田信長の重臣として有名です。織田家の武将を表したもので「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間」というものがあります。この中で信盛は「退き佐久間」と称され、殿(しんがり)軍の指揮を得意としたことがうかがえます。しかし、晩年には信長に追放されたため、無能な武将といった印象をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。

そんな信盛ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、織田家の足元を支える老獪(ろうかい)な政治家で、家康にたびたび無理難題を押し付ける人物(演:立川談春)として、描かれます。

目次
はじめに-佐久間信盛とはどんな人物だったのか
佐久間信盛が生きた時代
佐久間信盛の足跡と主な出来事
まとめ

佐久間信盛が生きた時代

佐久間信盛が生きた時代には、家臣の離反や裏切りは珍しくありませんでした。そんな中、信盛は信長に仕え続けた筆頭家臣の一人とされています。ただ、晩年は信長の意に反した行動をとるようになっていきました。

佐久間信盛肖像(成瀬家本『長篠合戦図屏風』)

佐久間信盛の足跡と主な出来事

信盛は大永7年(1527)に生まれ、天正9年(1581)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

織田家の筆頭家臣として活躍

信盛は大永7年(1527)、尾張に生まれました。佐久間氏はもともと、安房 (あわ)の 佐久間を拠点としていましたが、後に尾張に移ったそうです。

信盛は当初から、織田家に仕えていました。そして信長の筆頭家臣として、様々な活躍を見せます。

永禄11年(1568)、信長の上洛に伴って京都に入り、治安維持に努めます。近江永原(ながはら)城主となった時は、元亀元年(1570)に柴田勝家とともに南近江の六角義賢(ろっかく・よしたか)を撃破。さらに浅井長政(あざい・ながまさ)・朝倉義景(あさくら・よしかげ)・比叡山衆徒への備えとして永原城を防衛しています。

元亀3年(1572)、信玄の三河侵攻時には、家康の援軍として三方ヶ原(みかたがはら)の戦いに参戦しました。この時は武田軍に敗北してしまいます。

三方ヶ原の戦いの様子(『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』より)

天正2年(1574)には、信長が勅許を得て、東大寺秘蔵の蘭奢待(らんじゃたい)という香木を切り取った際に奉行を勤めます。蘭奢待は、きわめて貴重な香木であり、これを切り取れるのは、ごく一部の権力者に限定されました。つまり、蘭奢待を切り取れるということは、その人物に相当の権力があることを意味したのです。天下を狙う信長にとって、この行為は自分が天下人であることを宣言する大きな意味がありました。

天正3年(1575)の長篠の戦いでは、信長に従って先方を務めます。鉄砲隊を指揮したともいわれ、この戦いで武田軍に大きな打撃を与えたのです。

水野信元を密告し、その遺領を与えられる。次ページに続きます

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