四郎次郎の機転と経済力で、家康の「伊賀越え」を支援する
天正10年(1582)に「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に謀反をされた際、家康は畿内にいました。その家康に「本能寺の変」の報をいち早く知らせたのが、四郎次郎だと言われています。信長と同盟を結んでいた家康は、光秀の軍勢から狙われる可能性があったため、急いで三河国に戻ることに。四郎次郎は機転と経済力を持って家康に協力し、のちに「神君伊賀越え」と呼ばれる脱出劇を成功させました。
豊臣秀吉政権下で隠密御用を行なう
その後、豊臣秀吉政権下になると、秀吉と家康は冷戦状態になります。その際、四郎次郎は上方の情勢を家康に内通するスパイ的な行動をして貢献していました。そのため、豊臣氏からにらまれ、一時身辺が危険にさらされています。
そうしたことがありながらも、四郎次郎は両者の政治的調整役を果たし、天正14年(1586)には大坂城において、家康を介し、秀吉にも知られる仲となります。その後、秀吉と家康の内使役をたびたび勤めたそうです。
江州代官を勤めたのち、家康の呉服御用達に
その後も、家康の四郎次郎への信頼は厚く、後陽成天皇の聚楽第行幸の際には家康の責任分担を四郎次郎が手がけたそうです。また、家康の関東所領替の際には、江戸町方の市中の町割に関与したと言われています。ついには、江州代官を勤めることにもなりました。
天正16年(1588)頃、四郎次郎は江州代官を辞退。その後は家康の呉服御用達として仕え、慶長元年(1596)に55歳で亡くなりました。
茶屋家のその後
初代・茶屋四郎次郎の死去後は、長男の清忠が2代目四郎次郎を継ぎます。清忠は所司代の設置を進言し、上方5ヵ所(京・大坂・奈良・堺・伏見)の町人を支配しましたが、早世。次弟の又四郎清次が家康の命で3代目四郎次郎となります。呉服師のほかに、長崎貿易や朱印船貿易に従事し、隠然たる力と巨利を得ました。
その後、茶屋は三家に分かれ、幕末まで公儀呉服師として残ります。しかし、近世中期より経営不振となり、幕末に廃業しました。
まとめ
徳川家康の伊賀越えを助けたことで有名な茶屋四郎次郎ですが、合戦にも従事し、武勲まで立てていたのです。陰になり日向になり、家康を支えた人物だということは間違いないでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/京都メディアライン
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協力/静岡県観光協会
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)