はじめに-足利義昭とはどんな人物だったのか
足利義昭(あしかが・よしあき)は、室町幕府・最後の将軍として有名です。織田信長の支援によって征夷大将軍になるも、のちに対立し京都から追われる身になったエピソードは広く知られています。
そんな義昭ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、明智光秀を介して信長と通じたが、やがて信長や家康と対立する人物(演:古田新太)として、描かれます。
目次
はじめに-足利義昭とはどんな人物だったのか
足利義昭が生きた時代
足利義昭の足跡と主な出来事
まとめ
足利義昭が生きた時代
義昭が生きた時代は、室町幕府が名実ともに終焉を迎える時期でもありました。既に全国を支配する力は失われていましたが、権威はまだあったのです。しかし、次の時代の主役となる信長らの台頭によって、確実に終焉は近づいていました。
足利義昭の足跡と主な出来事
義昭は天文6年(1537)に生まれ、慶長2年(1597)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
「義昭」を名乗る
義昭は、室町幕府の第12代将軍である足利義晴(あしかが・よしはる)の次男として、天文6年(1537)に生まれました。当時、嫡子以外は出家するのが慣例であり、家督を相続する立場になかった義昭も6歳で奈良の興福寺・一乗院(いちじょういん)に入室します。そして、覚慶(かくけい)と名乗りました。
出家した義昭は、僧侶としての人生を歩むかに思われました。しかし、大きな転機が訪れます。永禄8年(1565)に室町幕府の第13代将軍で、義昭の兄である足利義輝(よしてる)が家臣の三好三人衆に殺害されてしまったのです。その時、義昭は幽閉されてしまいます。
何とか奈良から脱出して、還俗して義秋(よしあき)を名乗ります。朝倉義景(あさくら・よしかげ)の庇護を受けて、元服後に義昭と改名したのです。
征夷大将軍になる
義昭は、上洛と征夷大将軍の就任を目指して、上杉や武田など各地の大名へ協力を求めます。これに応じたのが信長で、義昭は信長の支援を受けて、無事に京都に入り、永禄11年(1568)に征夷大将軍に任命されました。こうして、義昭は室町幕府再建に向けてその一歩を踏み出したはずだったのです。
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