父・信長に訴状を送る
その後、五徳姫は二人の娘を授かりますが、以降子どもを授かることはありませんでした。二人の間に男子が生まれないことを心配した築山殿は、信康に側室を設けるように助言します。戦国の世において、男子が生まれないということは、家系が途絶えてしまう危機的状況を意味しました。
築山殿は今川氏真に両親を殺害された上、家康とも別居状態にあったため、頼みの綱である息子に跡継ぎができないことを不安に思ってしまうのも、無理はないでしょう。しかし、自分の代わりの女性を側室として迎えるということは、五徳姫にとっては面白くありませんでした。
腹を立てた五徳姫は、夫の信康と築山殿に対する不満や、二人が武田家と内通しているという内容の訴状を、父の信長に送り付けたのです。これを受けて信長は、家康に対して信康の切腹と築山殿の誅殺を家康に命じたと言われています(諸説あり)。
未亡人となった五徳姫は、出家も再婚もせず、その後は京都に隠棲したと伝えられています。また、五徳姫の二人の娘は、それぞれ本多忠政、小笠原秀政の正室となりました。
まとめ
信康と築山殿の粛清に関与したとされる、五徳姫。「松平信康事件」とも呼ばれるこの事件については、信長が五徳姫に命じたものであると言われることもあり、事件の真相については、今でもはっきりとはわかっていません。
いずれにしても、数奇な運命に巻き込まれながらも、強く生き抜いた女性と言えるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社出版)