はじめに-鳥居忠吉とはどんな人物だったのか

鳥居忠吉(とりい・ただよし)は、徳川家康の譜代の家臣として活躍しました。家康が駿府に人質に出されている間は岡崎城の留守を預かり、家康の帰還した時に備えて、せっせと蓄財していたエピソードは有名です。

そんな忠吉ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、家康不在の岡崎城の留守を預かるかたわら、今川氏に隠れて、せっせと金銀食料をため込む人物(演:イッセー尾形)として、描かれます。

目次
はじめに-鳥居忠吉とはどんな人物だったのか
鳥居忠吉が生きた時代
鳥居忠吉の足跡と主な出来事
まとめ

鳥居忠吉が生きた時代

鳥居忠吉が生きた頃、家康の松平氏は西の織田氏と東の今川氏に挟まれる状態にありました。勢力が強大ではなく、家が生き延びるためには家康を人質として差し出さなければならなかったのです。家康が天下人となるには、まだまだ程遠い状況でした。

鳥居忠吉の足跡と主な出来事

忠吉は生年不詳で、元亀3年(1572)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

岡崎城の留守を預かる

鳥居忠明の子として、三河に生まれた忠吉は、譜代の家臣として松平清康、広忠、家康の三代にわたって松平氏に仕えました。忠吉以前の鳥居家の当主が松平氏に仕えていたかは不明で、忠吉の代から松平氏に仕えたと推論されています。 家康が駿府で人質になっていた時、今川氏管理下の岡崎城で留守を預かっていました。

この間、収穫などは今川氏へ多く分配され、松平側は苦しい生活を強いられることに。そんな状況であっても、家康の帰還後の活動に備えて、今川氏の目を盗み、ひそかに物資を貯蓄していたのです。

取り壊し前の岡崎城の写真(よみがえる日本の城3 『名古屋城 岡崎城』より)

忠吉は副業として、商いも手がけており、それなりの貯えがあったとされています。人質として暮らしていた家康に衣類や食料を送り続け、また駿府へ出向いて家康を励ますこともあったそうです。本拠地の三河碧海郡は矢作川の水運で栄えた水陸交通の要衝のため、船や馬などの経済活動で富を蓄えることができたと考えられます。

天文18年(1549)、忠吉は安祥城(あんじょうじょう、今の愛知県安城市)への攻撃に参加します。この時、安祥城の城代で織田信長の兄・織田信広を生け捕りにする戦果を挙げました。

永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」で、松平氏の家臣団は今川義元の軍に加勢。忠吉も、大将の馬の周りで護衛や伝令を行う親衛隊の馬廻(うままわり)として活躍します。

この戦いで今川義元が織田信長に討たれたことで、家康は今川家の人質から解放されて岡崎城に帰還できたのです。この際、忠吉は貯蓄した米銭を披露し、家康に大いに感謝されたという逸話もあります。

三河武士の元祖的存在。次ページに続きます

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