三河武士の元祖的存在
松平氏の家臣団は団結心が強く、命を惜しまぬ戦いぶりを見せつけました。その忠誠心は「三河武士」としての名声を高めますが、家康を想う忠吉によって彼らの姿勢や意識は形成されたとも言われています。
忠吉は晩年も家康のために尽くし、元亀3年(1572)80歳余りで死去。松平氏に一心に仕え続けた生涯でした。
家康への思いやり
忠吉は、息子である元忠を人質時代の家康のそばに仕えさせ、孤独な家康を支えました。また、商売にも通じていた忠吉は、家康に貨幣の使い方についても教えたとか。晩年の家康が忠吉との思い出を語りながら、忠吉から習った方法で貨幣を積んでいたという逸話もあります。忠吉の忠誠ぶりは朝廷にも伝わっていました。
鳥居氏について
忠吉が属した鳥居氏の出自は、平氏とも熊野別当の族とも言われています。忠吉のころから、松平家に仕えるようになったとも。
忠吉の息子には、「三河武士の鑑(かがみ)」とも称された、徳川十六神将の元忠と、同じく徳川十六神将の忠広がいます。元忠は関ヶ原の戦いの際、伏見城の留守を預かりましたが、西軍の総攻撃をうけ、戦死しました。
元忠の子の忠政が後継者となり、出羽国山形へ移り、さらに加増されて22万石を領しました。忠政の子である忠恒に子がおらず、寛永13年(1636)に改易、元忠の旧功により忠恒の弟・忠春に信濃国高遠(今の長野県)3万石を賜わることに。
その後、鳥居氏はいくどか転封し、最終的に下野国壬生(今の栃木県)3万石に落ち着きました。やがて、明治維新になり、忠宝のときに版籍奉還。忠宝は壬生藩知事に任命されます。明治17年(1884)、忠文が子爵を授けられました。
まとめ
鳥居忠吉は強い忠誠心で家康を幼い時から支え、松平氏の再興に大きな貢献をしました。そんな忠吉は、三河武士の元祖的存在と言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本人名大辞典』(講談社)