三方ヶ原の戦いと壮絶な最期

元亀3年(1572)、領土拡大を求めた甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄率いる武田軍と、それに対抗する家康率いる徳川軍との間で勃発した「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」。武田軍の巧みな戦略に翻弄され、徳川軍は大敗を喫することになりました。

その際、追撃してきた武田軍から主君である家康を守るため、忠真は父や兄と同じく殿を務めて武田軍に突撃し、壮絶な最期を迎えることになりました。徳川軍が撤退を始める中、最後まで三方ヶ原の地に踏みとどまって戦ったとされ、「ここから後へは一歩も退かぬ」と言い残し、刀一本で敵陣に斬り込んでいったという逸話が残されています。

明治24年(1891)、忠真の末裔である第17代本多子爵によって、「本多肥後守忠真の碑」が建てられ、忠真の勇志を今日にも伝えています。

本多肥後守忠真の碑
本多肥後守忠真の碑(静岡県浜松市) 
碑の題字は、旧徳川将軍家第16代当主・徳川家達(いえさと)によって書かれた。

まとめ

「三方ヶ原の戦い」で死を覚悟し、息子の本多菊丸に、家康を守るように言い残したとされる本多忠真。甥の忠勝を立派な武将に育て上げ、主君・家康を命がけで守り抜きました。強い責任感と忠誠心を持った忠真は、家臣の鑑として戦国の世に儚く散っていったのです。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考サイト/
『本多肥後守忠真の碑』(静岡県観光公式サイト ハローナビしずおか)
『本多肥後守忠真』(真宗大谷派 芳蘚寺ホームページ)

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