はじめに-鳥居元忠とはどんな人物だったのか
鳥居元忠(もとただ)は、徳川家康に仕えた、安土桃山時代の武将です。その高い忠誠心から「三河武士の鑑」と称される元忠ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、人質時代から家康に付き添い、生涯を通じて主君を守り続ける徳川一筋の忠義者(演:音尾琢真)として描かれます。
目次
はじめに-鳥居元忠とはどんな人物だったのか
鳥居元忠が生きた時代
鳥居元忠の足跡と主な出来事
まとめ
鳥居元忠が生きた時代
鳥居元忠が生きたのは、戦国武将がしのぎを削る安土桃山時代です。中でも尾張国の織田信長が台頭を始め、隣国である三河を治める松平氏(徳川氏)も戦いに加わっていきました。そんな松平氏に家臣の子として生まれた元忠は、家康への高い忠誠心を持って、戦国の時代を生きていきます。
鳥居元忠の足跡と主な出来事
鳥居元忠は、天文8年(1539)に生まれ、慶長5年(1600)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
松平氏の家臣の子に生まれる
鳥居元忠(通称・彦右衛門<ひこえもん>)は天文8年(1539)、三河国(=現在の愛知県東部)にて、松平氏の家臣・鳥居忠吉(ただよし)の三男として生まれます。幼少より徳川家康の側近として仕え、家康が今川氏の人質となった時には駿府に随従しました。
家康に仕える中で、足を負傷する
その後も元忠は家臣として、家康の三河統一・遠江経略の戦に従軍しました。元亀元年(1570)、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政軍を撃破した「姉川(あねがわ)の戦い」では、他の者に先んじて敵中に攻め入ったとされます。同じく家康に仕える弟・忠広(ただひろ)とともに各地に転戦して、戦功を重ねました。
元亀3年(1572)12月には、遠江国・三方ヶ原(=現在の静岡県浜松市)で徳川家康が武田信玄と激突。信玄は2万5千という大軍を率いて遠江に侵入したのに対して、この時の家康の軍勢は1万1千ほどとされます。家康軍は交戦するも信玄軍に大敗し、浜松城に逃げ帰ったのでした。
この戦いにて元忠は負傷し、片方の足が不自由になったと伝えられています。また、弟・忠広はこの戦いで武田方の土屋昌次(まさつぐ)と戦い、討ち死にしました。
徳川の先鋒を務め、活躍する
天正10年(1582)「本能寺の変」が起こると、家康は信濃・甲斐へ侵攻。この際、元忠は後北条氏の将・北条氏勝(うじかつ)の軍を甲斐にて破りました。その功により、家康から甲州郡内(ぐんない)の地(=現在の山梨県東半部)を与えられ、城持(しろもち)衆の一人となったのです。
その後は、徳川氏の武将として先鋒を勤め、天正18年(1590)に起こった、豊臣秀吉による後北条氏の侵攻「小田原攻め」でも活躍。豊臣方の先鋒となった家康に従い参戦し、相模国・築井(つくい)城(=神奈川県相模原市)、武蔵国・岩槻(いわつき)城(=現在の埼玉県)を攻め下しました。その功により、秀吉から感状(=戦功を讃える感謝状)を与えられたとされます。
また、家康の関東入国に際しては、下総国・矢作(やはぎ、現在の千葉市)で4万石の所領を与えられました。
【伏見城にて豊臣方と戦い、戦死する。次ページに続きます】