武功と内政での活躍

忠勝は57度もの戦いに参加しながら、一度も手傷を受けることがありませんでした。武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いでは、殿(しんがり)軍を務め、敵中突破による戦場離脱をはかりました。その勇猛ぶりから武田勢も感嘆し、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐 (から) の頭 (かしら) に本多平八」という落書きが生まれたほどでした。

それだけでなく、織田信長には「花も実も兼ね備えた武将である」と高く評価され、豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と称えられています。忠勝は、むやみに敵を殺害することをよしとせず、主君に対する忠節を貫き通しました。

小牧・長久手の戦いでの、忠勝の武者ぶりは有名。
本多忠勝と加藤清正は一騎討ちをしたという話があります
(『大日本歴史錦繪』国会図書館デジタルより)

家康が関東に入国すると、上総国大多喜(おおたき)10万石が与えられました。その後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは軍監を務め、東軍諸将のまとめ役を担っています。合戦後は、伊勢国桑名10万石を与えられました。ちなみに旧領の大多喜は次男の忠朝(ただとも)に別家5万石として与えられています。

最期

慶長15年(1610)、忠勝は63歳で生涯を終えました。忠勝は、死の直前に一度だけ怪我をしました。それは、小刀を使っている時に指にかすり傷を負ったというもの。その時に、自らの死期を悟ったという逸話が残されています。

忠勝の死後は、嫡男・本多忠政は大坂の陣で大きな戦果をあげたことにより、本多家は姫路に転封となっています。

まとめ

忠勝は徳川四天王の一人として、高い人気を誇っています。信長が評価するほどの武勇はもちろんのこと、主君に対する忠節や優れた内政の業績も高く評価される要因でしょう。忠勝は、今もなお、人々を魅了しているのです。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/三鷹れい(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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