はじめに-本多忠勝とはどんな人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する本多忠勝(ほんだ・ただかつ、演:夏生大湖)は、徳川家康(演:松下洸平)に長く仕えた譜代の武将で、「徳川四天王」の一人として広く知られています。勇猛さで名高く、生涯に50回以上の戦に出ながら、一度も傷を負わなかったという逸話でも有名です。
この記事では、本多忠勝が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。
『豊臣兄弟!』では、家康の家臣として描かれます。

本多忠勝が生きた時代
本多忠勝が生きたのは、戦国大名どうしの争いが続く中で、徳川家康が三河の一領主から全国政権の中枢へと成長していく時代でした。織田信長との同盟、武田氏との対立、豊臣秀吉との緊張、さらに関ヶ原の戦いを経て、徳川政権が形づくられていく、そのほぼ全過程に忠勝は立ち会っています。
忠勝は、松平氏発祥のころから続く譜代の家柄の出身でした。つまり、家康にあとから加わった武将ではなく、徳川家の土台を支えてきた家の一人だったのです。若いころから家康に仕え、各地の戦いで武功を重ね、やがて徳川家臣団の最上層に位置づけられるようになります。
本多忠勝の足跡と主な出来事
本多忠勝は、天文17年(1548)に生まれ、慶長15年(1610)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
父の戦死後、幼くして家康に仕える
本多忠勝は天文17年(1548)、三河国(現在の愛知県東部)に生まれました。幼名は鍋之助、通称は平八郎です。父は本多忠高、母は植村氏義の娘でした。
ところが、忠勝がまだ幼いころ、父の忠高は安城の城攻めで討ち死にします。その時、忠勝はまだ2歳でした。その後、忠勝は幼くして家康に仕える道を歩むことになります。

大高城への兵糧入れが初陣
忠勝の初陣は、永禄3年(1560)の大高城への兵糧入れでした。今川義元の命で、松平元康(のちの家康)が尾張(現在の愛知県西半部)大高城へ兵糧を入れたとき、忠勝もこれに従っています。13歳での初陣でした。
この大高城への兵糧入れは、桶狭間の戦いの前夜にあたる緊張した場面として知られています。忠勝は、まさに家康の若き日と歩みをともにしながら、武将としての第一歩を踏み出したのです。
三河一向一揆、姉川、長篠で武功を重ねる
忠勝は、その後も三河一向一揆、元亀元年(1570)の姉川合戦、天正3年(1575)の長篠の戦いなど、徳川家の重要な戦いに次々と参加し、抜群の戦功を挙げました。

戦いに勝ったことで「勝山」と呼ばれるようになる。
永禄9年(1566)には寄騎50余人を付属されており、忠勝が比較的早い段階から家中で重視されていたことがうかがえます。若くして自前の家臣団を持ち始めていたのです。
「家康に過ぎたるもの」と称された武勇
本多忠勝の名を今に伝える最大の理由は、やはりその武勇でしょう。忠勝は57回の戦いに参加しながら、一度も手傷を負わなかったと伝えられています。
また、元亀3年(1572)の武田信玄との合戦の後、敵方から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」とはやされたという逸話は、特に有名です。それほど忠勝の武勇が敵にも恐れられていたということでしょう。
本能寺の変の際、家康に帰国を進言
天正10年(1582)の本能寺の変の際、京坂遊歴の途中で異変を知った家康に対し、忠勝が三河帰国を進言したといいます。いわゆる「伊賀越え」と結びつけて語られる場面です。
この逸話は、忠勝が単に前線で戦うだけの武将ではなく、非常時に主君へ進言できる重臣でもあったことを示しています。
小牧・長久手の戦いでの勇名
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでも、忠勝の武名は広く知られました。
特に、長久手へ救援に向かう豊臣秀吉の数万の大軍に対し、わずか300の兵で対決しようとした話が有名です。もちろん、後世の脚色もあるかもしれませんが、それでも忠勝の勇猛さを象徴する逸話として広く語られてきました。

このころには、忠勝は酒井忠次、榊原康政、井伊直政と並び、「徳川四天王」の一人とみなされるようになります。徳川家の武断派を代表する存在だったのです。
関東移封後、大多喜10万石の大名に
天正18年(1590)、家康が関東へ移ると、忠勝は上総国(現在の千葉県中央部)大多喜10万石を与えられ、大多喜城主となりました。これは、家臣団の中でも非常に高い位置にあったことを意味します。この時すでに酒井忠次が引退していたため、井伊直政、榊原康政とともに「三人衆」とも呼ばれていました。
忠勝は、まさに徳川家の最上級の家臣として扱われていたのです。
関ヶ原の戦いと桑名移封
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、忠勝は井伊直政とともに、福島正則ら豊臣系諸大名の軍監として活動しました。豊臣恩顧の大名たちを徳川方としてまとめる役目の一端を担ったわけです。

本多忠勝の陣は赤枠で囲った位置にあったとされている。
その翌年、慶長6年(1601)に忠勝は伊勢国(現在の三重県東部)桑名へ移され、桑名城主となりました。このとき五万石加増の命があったものの、それを固辞したため、大多喜の五万石は次男の忠朝(ただとも)に与えられたといいます。
この話からは、忠勝の気質もうかがえるようです。
晩年と徳川政権の中での位置
幕府創業期、忠勝は徳川四天王の一人として、武功派の宿老として徳川家の覇権確立に尽くしました。一方で、家康が駿府に隠退した後は、本多正信・正純父子ら吏僚派によって政権中枢から遠ざけられたとする見方もあります。
慶長15年(1610)10月18日、忠勝は桑名で没しました。63歳でした。
まとめ
豪勇で知られる一方、非常時には主君に進言し、家臣団の中核として働いた本多忠勝。その生涯は、徳川家の成長そのものと重なっています。戦国から江戸初期へ移る時代を語るうえで、欠かせない武将の一人です。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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●写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
●肖像画/ぐう(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)











