はじめに-九条兼実とはどんな人物だったのか

九条兼実(かねざね)は、源頼朝の後援で摂政となった、鎌倉初期の公卿です。後白河法皇の院政の下、勢力の伸長を謀りましたが果たせず、のちに失脚しました。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、源平動乱の時代に公家の頂点に立ち、後白河や頼朝と腹を探り合う人物(演:田中直樹)として描かれます。

目次
はじめに-九条兼実とはどんな人物だったのか
九条兼実が生きた時代
九条兼実の足跡と主な出来事
まとめ

九条兼実が生きた時代

九条兼実が生きた時代は、平安末期から鎌倉初期にあたります。平氏の台頭と源氏の挙兵、そこから連なる源平合戦が行われた争乱期を生きた兼実は、戦いの勝者である源頼朝と結んだのでした。

九条兼実の足跡と主な出来事

九条兼実は、久安5年(1149)に生まれ、承元元年(1207)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

有力貴族・藤原忠通の子として生まれる

九条兼実は、平安時代中期から後期に権勢を誇った「藤原北家」の氏長者で関白を務めた、藤原忠通(ただみち)の三男として生まれました。母は、藤原仲光(なかみつ)の娘・加賀局(かがのつぼね)です。

第一期:平氏政権下にて

兼実の政治的生涯は、三期に分かつことができるとされています。第一期は16歳から34歳まで、平氏政権下にあったときです。

九条兼実は保元3年(1158)、10歳で元服すると順調に昇進し、16歳には右大臣にまで進みます。その頃、台頭してきた平氏は、摂政の近衛基実(もとざね)と血縁を結ぶなど、公家政権との協調に努めました。また、同じ触手を弟・松殿基房(まつどのもとふさ)、そして、兼実にも及ぼそうとします。しかし、後白河院との権力争いの中で公家との協調関係が崩れ、独裁化していった平家は、治承3年(1179)には後白河上皇を幽閉し、クーデターを起こしたのでした。

摂関家の誇りに生きた兼実は、極力平氏との接触を警戒するようになりました。ただ、その非協力的な姿勢から、政局の中枢部から疎外され、政治情勢に対する影響力はほとんどなかったとされています。

その後「治承・寿永の乱」(源平合戦)においては、九条家は後白河上皇や平氏、源氏など特定の勢力に属さず、終始傍観し続けました。その結果、兼実は終始右大臣にとどまることとなり、摂関就任の念願は阻まれました。

平氏政権は、清盛の死に衰兆を示し、木曽義仲(よしなか)の進攻に崩壊し、源頼朝の新政権にとどめを刺されました。平家滅亡後、鎌倉幕府の覇権が確立する文治元年(1185)に至って、源頼朝がしだいに兼実に接近をはかり、やがて兼実自身もこれと提携するに至ったのでした。頼朝に支持された兼実は、内覧の宣旨を受け、翌年には摂政、氏長者、さらに建久2年(1191)には関白となります。

かくして年来の宿望を達成し、彼の政治の第二期が開けたのでした。

第二期:摂政・関白として

第二期は、摂政、次いで関白として公家政権を掌握した期間です。このうち建久3年(1192)までは後白河法皇が在世して依然強い影響力を政局に及ぼし続けたため、兼実は源頼朝と密接な協力関係を樹立しその強い支援を受けながらも、京都政界では孤立と無力とを嘆かなければなりませんでした。

この情勢を象徴する歴史的事業として、東大寺復興が挙げられます。その完成に際して頼朝も上洛して敬意を表しましたが、その機会に頼朝と兼実とは相語って盟約を固めています。しかし一方、兼実のこの立場は疑惑の的となり、朝廷への反逆者をもって目せられることは兼実をもっとも苦しめました。

法皇の没後に至って、兼実は頼朝に征夷大将軍の地位を与え、南都復興事業をやりとげます。また、娘を後鳥羽中宮(ごとばちゅうぐう)とすることができ、執政がようやく軌道に乗るように見えました。しかし、皇子の誕生はなく、外戚政治の望みが断たれてしまいます。

一方、朝廷内部の反武家勢力を代表する源通親(みちちか)は、九条家の競争者・近衛家を擁して、兼実の政界追放を企てます。そして、建久7年(1196)には兼実打倒の政変に成功。こうして兼実は48歳で政界を追われたのでした。

第三期:隠棲期

第三期、すなわち隠棲期に入ると、兼実は次男・良経(よしつね)の38歳での急死に遭い、その遺児・道家(みちいえ)の成長にすべての希望を託することを余儀なくされます。

一方、親しんできた仏教の信仰は年々深まり、壮年のころから交渉の深かった念仏門、特に法然(ほうねん)の帰依が篤くなります。建仁2年(1202)に出家した際の戒師は、浄土宗の開祖・法然が請じられました。法然の『撰択本願念仏集』は、兼実のために述作されたものといわれています。

兼実は、若年から歌道に関心深く、自身詠作があるとともに、藤原俊成(としなり)・藤原定家(さだいえ)らの当代の代表歌人の庇護者として大きな役割を果たしました。また、彼の日記『玉葉(ぎょくよう)』は今も残されています。記事は40年にわたり、彼の生きた変革期を活写しており、数多い公家日記中で高く評価されるものの一つです。

そして、承元元年(1207)4月5日に、没しました。没後は京都の法性寺(ほっしょうじ)に葬られ、その墓は京都の東福寺の東に現存します。

「九条家」の祖となる

兼実は、五摂家のひとつ「九条家」の祖にあたります。「五摂家」とは、藤原北家の嫡流で鎌倉時代以降摂政・関白に任ぜられる5家のことで、九条家・近衛家・鷹司家・二条家・一条家が該当します。

九条家は、九条兼実が京都九条殿に住んだことから興りました。鎌倉幕府と関係が深く、鎌倉幕府の摂家将軍は九条家出身です。兼実から始まった一族は、代々摂関として近世末まで宮廷政治の重鎮であり続けたのでした。

まとめ

源平の動乱期にありながらも、後白河法皇や平氏、源氏のいずれの勢力下にも加わらず、静観を続けた九条兼実。その後、幕府を開いた源頼朝と結びつき、朝廷から孤立しながらも自らの政治を貫き通しました。その生涯からは、自らの正しさを信じる強い意志が感じられるのではないでしょうか。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

 

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