松平広忠と離縁。家康とは離れて暮らすことに…

しかし、天文11年(1542)8月の小豆坂の合戦を機に今川・織田の対立が激化し、松平・水野両氏の対立も深まりました。天文13年(1544)、広忠は今川氏への配慮から於大の方と離縁。妻より主を選んだのです。離別された於大の方は、家康を残したまま刈屋城に戻りました。この時、家康はわずか3歳でした。

数年後、於大の方は尾張阿久比(あぐい)城主・久松長家(名は定俊、長家、俊勝と変遷)と再婚し、康元・勝俊・定勝など三男三女を生んでいます。

静岡駅前にある「竹千代君」像。

しかしながら、この間も於大の方と家康は連絡を絶やすことはなく、強い母子愛で結ばれていたと言います。

16年振りに、家康と再会

永禄3年(1560)頃、家康は阿久比城にいる於大の方を尋ね、ふたりは16年振りに再会。手を取り合い喜んだと伝えられています。それ以降、於大の方は、家康のもとで暮らすようになりました。

家康のすすめで上洛

慶長7年(1602)5月22日、家康のすすめで上洛し、後陽成天皇に謁しています。その直後に病にかかり、8月28日伏見城で亡くなります。享年75歳でした。

京都知恩院で法会の後、遺骸は江戸に送られ無量山寿経寺(小石川伝通院)に葬られました。法名は「伝通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」。死後、従一位が贈位されました。

於大の方の肖像画(『愛知県史 別編 絵画』楞厳寺所蔵)

まとめ

政略結婚をし、子供を産むも、政治的な理由から離縁された於大の方……。特に幼い家康とは、離れ難かったことでしょう。離れている間も連絡を取り合っていたからこそ、再会したあとはずっとそばにいられたのかもしれませんね。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/末原美裕(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
ナレーション/敬太郎
HP: https://kyotomedialine.com FB:Facebook

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

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