はじめに-慈円とはどんな人物だったのか

慈円(じえん)は鎌倉初期の天台宗の僧です。摂政関白の子供に生まれ、僧になると四度も延暦寺の天台座主になりました。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、後鳥羽上皇に仕える中世きっての名僧(演:山寺宏一)として描かれます。

目次
はじめに-慈円とはどんな人物だったのか
慈円が生きた時代
慈円の足跡と主な出来事
まとめ

慈円が生きた時代

慈円が生きたのは、源平の争乱から鎌倉幕府の成立、御家人の対立、北条氏の権力確立といった激動の世でした。時代が武力を持つ武家政治の方向に流れる中で、慈円は僧侶として朝廷で重んじられます。その後には、討幕を目論む朝廷と幕府との対立が起こっていくのでした。

慈円の足跡と主な出来事

慈円は、久寿2年(1155)に生まれ、嘉禄元年(1225)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

摂関家の子として生まれる

慈円は、久寿2年(1155)に摂関・藤原忠通(ただみち)の子として生まれました。母は藤原仲光(なかみつ)の娘・加賀局。同母兄に兼実(かねざね)・道円(どうえん)・兼房(かねふさ)ら、異母兄に基実(もとざね)・基房(もとふさ)・覚忠(かくちゅう)らがいます。

生まれた翌年の保元元年(1156)、崇徳上皇と後白河天皇の対立から「保元の乱」が起こりました。摂関家では父・忠通と叔父・頼長(よりなが)の兄弟が地位をめぐり対立していました。戦いは父含む天皇側の勝利で終わったものの、慈円が2歳の頃には母が、10歳の頃には父が死亡。親を失った慈円は、権中納言・藤原経定(つねさだ)の未亡人に養われました。

出家し、修行を積む

永万元年(1165)11歳で延暦寺の青蓮院(しょうれんいん)門跡に入り、第二代門主・覚快法親王(かくかいほっしんのう)に従いました。2年後、13歳で出家。法名を「道快(どうかい)」と称しました。この頃、慈円は延暦寺の無動寺をはじめとする寺で修行を積みます。

摂関家の出身である慈円の地位は順調に上昇しましたが、治承4年(1180)天台僧としての修行にひとくぎりをつけた慈円は、隠遁したいと考えました。しかし、保護者であった同母兄の兼実(=九条兼実)に説得されて思いとどまったとされています。翌年の養和元年(1181)法印に叙せられ、名を「慈円」と改めました。

兄・兼実とともに地位が高まる

この頃、平家が滅亡し、源平合戦が終わりを迎えました。文治元年(1185)、源頼朝が鎌倉幕府を確立すると九条兼実に接近をはかります。頼朝に支持された兼実は摂政、氏長者、さらに建久2年(1191)には関白となります。こうして兄・兼実は、後鳥羽天皇の院政下に政権を執ることとなったのでした。

兄の権力の増大にともなって、延暦寺における慈円の地位も上がります。建久3年(1192)には頼朝と兼実の推挙によって38歳の若さで天台座主となります。建久3年(1192)後白河院他界ののちには、後鳥羽天皇の護持僧(ごじそう)(=天皇の身体護持のために祈祷を行った僧)に任ぜられました。朝廷・公家の祈祷によって仏法興隆に身を投じたのです。

しかし、兼実の政界での浮沈に応じて4回天台座主に任命されるというように、その地位は安定していませんでした。兼実の没後、慈円は兼実を祖とする九条家の発展に尽くし、兼実の娘で後鳥羽上皇の后の任子(にんし)、兼実の孫・道家(みちいえ)の後見となりました。そうしたなかで源実朝の死後、道家の子と頼家の娘の間に生まれた頼経(よりつね)が、いわゆる“摂家将軍”として鎌倉に迎えられました。

この頃、天皇・摂政・将軍をすべて九条家の勢力で占める体制ができつつあり、僧としても歌人としても後鳥羽上皇に重んぜられていた慈円の絶頂の時期であったといわれます。

また、僧侶として栄達をきわめた慈円は、比叡山が高い権威と大きな力を保ちえた時代の最後を飾る座主であったとされています。彼は、如法経懺法(にょほうぎょうせんぽう)や西方懺法(さいほうせんぽう)といった新たな儀礼を創始することで、比叡山の仏法の独自性を示しました。

対立する公武のために祈祷を続ける

後鳥羽院とは師檀(しだん)の関係も深く、また歌人としても深く傾倒しあっていた間柄でしたが、武家政治に関しては対立。慈円は院の方針に危険を感じ、ついに承久元年(1219)には院の前を去ったのでした。その後、後鳥羽上皇は討幕に傾き、承久3年(1221)に「承久の乱」が勃発。

公武の衝突に傷心した慈円でしたが、翌貞応元年(1222)には焼失した寺院を東山に再建して祈祷再開を図ったのでした。この地で朝廷と幕府とのための祈りとして行法を再開しましたが、嘉禄元年(1225)9月15日、病のため亡くなります。比叡山の麓の坂本で、多くの弟子に囲まれ、71歳のその生涯をとじたのでした。

歌人としての慈円

歌人としての慈円が高い評価を受けていたことは、『新古今和歌集』に91首もの歌が選ばれていることからうかがえるでしょう。彼の歌は技巧に走らず、清明な心境を詠んだものが多いとされます。家集『拾玉集(しゅうぎょくしゅう)』には4600余首が収められており、「おほけなく うき世の民に おほふかな 我がたつそまに すみ染の袖」は百人一首の歌として知られています。

慈円は、当時文学芸能の中心の一つであった九条家の一員として知られたために、和歌や芸能についての説話にしばしば登場します。また、彼と繋がりがあったとされる浄土教の僧も多く、浄土真宗の祖・親鸞の戒師であったとも伝えられています。

歴史・文学面での活躍

さらに、承久2年(1220)ごろには、歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』を執筆。神武天皇から順徳天皇までの歴史を、末法思想と道理の理念とに基づいて述べました。独自の史観を示し、公武合体の政治を謳歌すると同時に、九条家の政治的立場を擁護したとされます。『愚管抄』は歴史の叙述や解釈の中に、当時の公家の政治思想を読み取ることができる点から、思想史上重要な書として扱われているのです。

また、文学の世界にも大きく貢献したとされています。『平家物語』成立の背景には、彼の保護があったとされているのです。慈円が学解才芸ある人と交わり、その庇護した人の手によってこの物語が成ったと伝えられています。

まとめ

摂政関白の子供に生まれ、僧侶として栄達をきわめた慈円。兄の存在もあり、地位を高めていく僧としての一面と同時に、文化面での役割も担っていました。歌人としての才能はもちろんのこと、公武の関係性から歴史の動向を見極める確かな目を持っていた人物といえるのではないでしょうか。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

 

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