伏見城にて豊臣方と戦い、戦死する

慶長5年(1600)「関ヶ原の戦い」の直前に、元忠は家康から伏見城の守備を命じられました。秀吉が建てた伏見城は、京都市伏見区桃山町に位置し、秀吉の死後は家康が入って政務を見ていた城でした。家康が会津の上杉征伐に向かう際、この伏見城の総大将として元忠を残し、留守を任せたのです。

伏見城(模擬天守)
現在は伏見桃山城運動公園内に位置する。

しかし、同年7月19日、伏見城は豊臣方の西軍の総攻撃を受け、8月1日に炎上落城。城を守ろうと奮戦した元忠でしたが、戦死し、62歳でこの世を去ったのでした。ただし、その後、彼が最期まで忠義を尽した主君・家康は「関ヶ原の戦い」で勝利し、天下統一を果たすことになります。

伏見城の「血天井」とは

京都市東山区にある養源院(ようげんいん)には、元忠の死に関わる、ある伝承が残っています。それが「血天井」です。養源院の天井板は、かつて元忠が守った伏見城の床板だったものとされ、そこについた赤い血は、自害した徳川の将士らのものと伝えられています。廊下を天井に上げることで、亡き武士らの弔いがされたのでした。

家康は、この戦いで果てた元忠と家臣らに感状を送っているとされます。「血天井」はあくまで伝承の域を出ませんが、元忠の忠義が江戸時代を通じて重んじられていたことが伝えているといえるでしょう。

まとめ

家康に仕え、最期まで徳川軍として散った武将「鳥居元忠」。幼少より家康に随従し、各地の戦いで高く評価された史実に、エピソードが加わる形で「三河武士の鑑」という印象が生まれたとされます。それは、徳川の世である江戸時代で彼が忠臣として高く評価されていたことの表れでもあるのではないでしょうか。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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