秀吉と家康の戦い「小牧・長久手の戦い」

信長の死を受け、中央の政界では羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勢力が伸びていきます。同時に、信長の遺子・信雄(のぶかつ)との対立関係は激化しました。信雄を援助した家康は、天正12年(1584)に尾張に出兵。「小牧・長久手の戦い」と総称されるこの戦いで、数正は本陣である小牧山を守り、ついで前田城を攻略して戦功を立てます。

『小牧長久手合戦図屏風』

長久手の戦いで家康方に敗北を喫した秀吉は撤退し、その後、戦線は膠着状態が続きました。最終的には秀吉と信雄との間で、講和が成立。この際、秀吉や信雄、家康との調整に奔走したのも、数正であったとも伝わっています。こうして秀吉・家康の対戦は、幕を閉じました。

また、同年12月、家康の次男・於義丸(おぎまる)=のちの結城秀康(ひでやす)が養子として秀吉の許に赴きました。その際、数正は自身の嫡子・康長(やすなが)、第二子・康勝(やすかつ)を大坂に従わせます。

家康から去り、秀吉のもとへ

このように高い忠誠心を持った数正でしたが、翌年天正13年(1585)11月、突如として城代を勤めていた岡崎城を出奔。秀吉のもとへと走り、彼に臣従したのでした。

数正が家康から離れた理由としては「秀吉の説得に応じたから」や「秀吉との融和を求める数少ない和睦派で、家中で孤立したから」、「徳川家のため自ら敵に潜り込んだ」など、諸説あります。他にも、水野信元の誅殺に関与したことで、信元の妹で家康の母である於大(おだい)の方の恨みを買ったとも言われていますが、彼の真意は不明なままです。

こうして数正は、秀吉により和泉国(=現在の大阪府)の地を与えられ、家臣として仕えます。天正18年(1590)には、秀吉が小田原(=現在の神奈川県小田原市)を本城とする北条氏政(うじまさ)・氏直(うじなお)父子を攻撃し滅亡させます(=小田原征伐)。この戦いに従軍した数正は、その功により、信濃国松本城主8万石(10万石の説もあり)に封ぜられました。

この松本城は、古くは「深志(ふかし)城」と呼ばれていました。現在の松本城は、数正とその子・康長が天正19年(1591)~慶長年間(1596~1615)半ばに築いたものとされます。

松本城。現存する天守の中では最も古い

文禄元年(1592)3月、肥前・名護屋に出陣。その後、没しました。没年については諸説ありますが、文禄元年、もしくは2年(1592~93)と言われています。

まとめ

家康、そして秀吉という2人の天下人に仕えた石川数正。彼が家康のもとを去った真意は、400年以上経った今も明らかにされていません。しかし、日本の歴史に名を刻む2人から高く評価されたことは、史実からうかがい知ることができます。だからこそ、鋭い知性を持った数正が抱えたであろう葛藤に想像が膨らむばかりです。こうした視点で振り返ると、一層戦国史を重層的に捉えられるのではないでしょうか。

※表記の年代と出来事には、諸説あります

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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