はじめに-大江広元とはどんな人物だったのか

大江広元(おおえのひろもと)は、鎌倉前期の幕府の重臣を務めた人物です。文章道・明法道を修めて学問・法律に通じ、事務官僚として活躍しました。源頼朝に招かれて公文所別当となり、幕府政治の重要問題に関与しました。

2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、“十三人”の一人であり、頭脳で乱世を生き抜く官僚(演:栗原英雄)として描かれます。

目次
はじめにー大江広元とはどんな人物だったのか
大江広元が生きた時代
大江広元の足跡と主な出来事
まとめ

大江広元が生きた時代

大江広元が生きた時代は、武士・貴族・天皇・上皇の勢力が複雑に入り乱れた、平安末期から鎌倉初期に該当します。広元はもともと朝廷の官人を務めていましたが、幕府成立に際し、源頼朝の家臣となりました。彼が幕府の頭脳として様々な働きをしたことで、草創期の鎌倉幕府が形作られていきます。

大江広元の足跡と主な出来事

大江広元は、久安4年(1148)に生まれ、嘉禄元年(1225)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

学問の家柄である大江氏に生まれる

大江広元は、平安時代以来の学問の家柄である大江氏に生まれます。父は式部少輔・大江維光(これみつ)とされています。論語・孝経などの経書(けいしょ)の研究をする明法(みょうぼう)博士である中原広季(ひろすえ)の養子となり中原姓を称しましたが、後に本姓に復しました。

官人から幕府の文官のトップとなる

京の朝廷での広元は、天皇への奏文作成、儀式や公事を取り仕切る外記(げき)として局務に携わる中堅官僚でした。しかし、元暦元年(1184)には、鎌倉へ下り、源頼朝の家臣となります。両者の仲立ちをしたのが、同じ広季の養子で、すでに鎌倉に下っていた中原親能(ちかよし)でした。鎌倉に下向した後は、常に幕府の中枢にあって頼朝の創業を助けます。

幕府の政治・行政を司る政所(まんどころ)の前身・公文所(くもんじょ)の別当となり、その後、政所の開設にともない、初代の政所別当(べっとう)になります。こうして広元は、幕府の枢機に参画したのでした。

それだけでなく、明法(みょうぼう)博士、左衛門大尉(さえもんだいじょう)、検非違使(けびいし)に任ぜられ、当時異例の人事といわれました。こうした功績から、初期幕府の政治に参画した、京下り官人を代表する人物といえるでしょう。まさに文官のトップです。

幕府の重臣として働く

また、源頼朝の腹心として京・鎌倉をしばしば往還し、朝幕間の折衝にもあたりました。平氏追討の時期には、頼朝の意を朝廷に伝える役を果たします。また、有名な「守護・地頭」の設置は広元の発案とされていますが、これは定かではありません。ただ、この政策が幕府の基礎を築く上で重要な策であったことは確かです。

執権政治の確立に尽力する

頼朝の死後、広元は、頼朝の妻・北条政子、北条義時(よしとき)と協調し、執権政治の基礎を築くため尽力しました。正治元年(1199)4月には、二代目将軍・頼家(よりいえ)の政務専断は止められ、北条時政その他の重臣らと政務を合議することになります(=十三人の合議制)。その際、広元も十三人の一人として、幕府の中核を担いました。

その後の建仁3年(1203)に起こった、比企能員(よしかず)の追討ならびに将軍・頼家の修禅寺幽閉事件については、広元の謀に負うところが大きいとされています。また、元久2年(1205)に起こった有力御家人・畠山重忠(しげただ)の追討事件ならびに北条時政の出家、頼朝の猶子・平賀朝政(雅)(ともまさ)の追討事件にも彼が参画しています。

建保元年(1213)、御家人・和田義盛(よしもり)が義時の強大化に抗して兵をあげる(=和田合戦)と、広元もまたその攻撃を受けます。この後、3代将軍・実朝(さねとも)に従って法花堂に難を避け、ついで政所を警固しました。

出家後も、重臣として幕府を支える

建保5年(1217)11月10日に、重病のため出家し、法名を覚阿(かくあ)としました。しかし、その後も幕府の安泰化に努めます。

承久元年(1219)正月には、頼家の遺子による将軍・実朝の暗殺事件が起こります。その後は、政子・北条義時を助けて、幕府の安泰を計りました。その3年後、後鳥羽上皇や朝廷との武力衝突となった「承久の乱」では、関東にあって京都方の来攻を防ごうという守戦論に対して、積極的に京へ攻め上るべきことを主張しました。こうして、広元が御家人たちの迷いを吹き払ったことで、幕府側は勝利を収めることとなります。

幕府の安泰化に努め、一生を終える

元仁元年(1224)北条義時の死後も、北条氏の権力闘争の陰謀の事後処置を行ったのは広元でした。その後、嘉禄元年(1225)6月10日、78歳で没しました。この時、幕府は執権・北条泰時(やすとき)のもとに鎌倉幕府史上最も安定した時期を迎えていました。ここから、広元は幕府の基礎固めを果たして、息を引き取ったともいえるでしょう。

彼は文筆の家に生まれ武事には遠いのですが、京都に生まれ、つぶさに朝廷の内情に通じていました。このため幕府が朝廷側と折衝するに際して、その知識は大きな役割を果たすことになります。また、幕政の上で重要な部分を占める裁判権行使にあたっては、その法律知識などは大いに参考にされなければなりません。

関東の武士たちとは異なった、彼のこうした視野・見聞の広さは、草創期の幕府にとって不可欠のものでした。頼朝の挙兵以後から、頼朝の側近には次第に多くの京下りの官人が見られるようになり、その法律知識などをもって幕府の基礎を固めることに貢献しました。その中でも特に、広元は秀でた資質を持った、京下り官人の典型的人物といえるでしょう。

まとめ

鎌倉幕府の成立に際し、文官として組織の基盤づくりに貢献した大江広元。朝廷での役人の経験を活かし、将軍・源頼朝から篤い信頼を得ました。長きに渡り、安定した組織運営に貢献した彼の働きは、まさに文官のトップの名にふさわしいものだったといえるのではないでしょうか。

文/豊田莉子(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

 

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