はじめに-木曽義仲とはどんな人物だったのか
木曽義仲(きそよしなか)は、正式な名前を「源義仲」と言い、源頼朝の従兄弟にあたる人物です。木曽山中で成長したため、木曽義仲とも呼ばれました。義経と頼朝らよりも先に、平氏を追い詰め、上洛を果たすなど、源平合戦で華々しく活躍したことで有名です。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、源氏の棟梁の座を争う頼朝のライバル(演:青木崇高)として描かれます。
目次
はじめにー木曽義仲とはどんな人物だったのか
木曽義仲が生きた時代
木曽義仲の足跡と主な出来事
まとめ
木曽義仲が生きた時代
木曽義仲は、平安末期の武将です。彼が生きた時代は、平氏から源氏の時代へと変わる転換期です。その中で、義仲は平氏を討つべく挙兵し、源氏の軍勢として活躍をしました。しかし、その後、権力者である後白河法皇との間に対立が生まれ、義経らの追討を受け、戦死します。彼の死後、頼朝は幕府を開き、世の中は鎌倉時代へと突入していくのです。
木曽義仲の足跡と主な出来事
木曽義仲は、久寿元年(1154)に生まれ、寿永3年(1184)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
源氏の家系に生まれ、木曽で育てられる
木曽義仲は、清和(せいわ)源氏の嫡流・源為義(ためよし)の次子・義賢(よしかた)の次男として、関東の武蔵国秩父(=現在の埼玉県秩父市)に生まれました。父・義賢は、頼朝と義経の父・源義朝(よしとも)の弟にあたります。つまり、義仲は頼朝と義経とは従兄弟の関係にあります。
義仲生誕の翌年、父・義賢が甥の源義平(よしひら)と戦って討たれたため、幼児の義仲は孤児となりました。その後、信濃国(=現在の長野県)の木曽に逃れ、義仲の乳母の夫である中原兼遠(かねとお)に育てられました。
本名が「源義仲」である義仲が通称「木曽義仲」と呼ばれるのは、成人するまで木曽の山中で育ったことに由来しています。
平氏討伐のため挙兵する
治承4年(1180)4月、以仁王の令旨が届けられると、27歳の義仲は、信濃国の武士に回状を廻して9月に平氏討伐のため挙兵します。平家方の小笠原氏を越後国に走らせ、父の地盤であった上野国に進出しました。
翌年には平氏側の越後国の城助茂(じょうすけもち)の大軍を壊滅し、その後、義仲追討に下向した平通盛(みちもり)らの軍を越前国水津(すいづ)(=現在の福井県敦賀市)で破り、北陸道をほぼ平定します。反平氏の動きの活発な中で、北陸道から都へ上る計画でした。
俱利伽羅峠の戦いで勝利を収める
2年にわたる西国の飢饉が終わり戦局の停滞を脱すると、平家は維盛(これもり)・通盛ら十万の大軍を北陸道に派遣しようとします。しかし同時期、義仲は東国を支配下に置いた頼朝と対立し、関東勢との紛争の危機にもさらされていました。
その後、義仲は嫡子である義高(よしたか)を人質として鎌倉に送って、頼朝と和睦します。こうして東方との紛争を避けたうえで北陸道の経略に専念し、寿永2年(1183)5月には越中・加賀国境の砺波(となみ)山の俱利伽羅(くりから)峠で夜襲をかけて平氏軍を大破したのでした(=俱利伽羅峠の戦い)。
上洛するも、院と対立する
続く安宅(あたか)・篠原(しのはら)の戦いにも連勝し、北陸を支配下に収めた義仲は、7月には比叡山を味方に引き入れて、ついに平氏一門を都落ちさせ、念願の上洛を果たしたのでした。後白河法皇は直ちに義仲に平氏追討の命を与え、無位無官から従五位下左馬頭(さまのかみ)越後守、ついで伊予守に任じました。
しかし、義仲軍には軍紀の乱れと政治力の欠如という問題が生まれました。入洛した源軍は各地勢力の寄せ集めであって義仲の統制が効かなかったのです。また、早くから京下の官人・僧侶などを結集して御家人間の紛争処理や京都との折衝にあてた頼朝と比較すると、義仲は政治性が低かったのでした。それにより、入京後の義仲の評価は下がり、頼朝の上洛を望む空気が院中に強まったのです。
院と義仲、両者の間隙が急速に拡大すると、頼朝はこの機に乗じて京都政界への接近をはかり、「寿永二年十月宣旨」によって東海・東山両道の沙汰権を公認されます。その間に義仲は、西下した平氏を追討する戦いに挑むも、備中水島(びっちゅうみずしま)で敗北。義仲が帰洛してから、院の反・義仲色は露骨となったのでした。
孤立化、そして討ち死に
孤立した義仲はついに、寿永2年(1183)11月クーデターを敢行します。院の近臣を追放して独裁権を握り、翌年の寿永3年(1184)正月に、みずから従四位下征夷大将軍となり「旭(あさひ)将軍」と称しました。
しかし、このクーデターにより義仲の孤立化はいっそう深まり、西の平氏、東の頼朝のほか、山門大衆も反・義仲勢力に追いやったのでした。義仲は、頼朝との決戦に備えて平氏と内々の和平をはかり、また法皇を奉じて北陸に下ろうともしましたが、果たすことはできませんでした。
そして迎えた寿永3年(1184)正月、頼朝の代官である源範頼(のりより)・義経の大軍に敗れ、1月20日北陸道へ落ちる途中、琵琶湖畔の粟津(あわづ)で討ち死にしたのでした。義仲は31歳でした。
義仲の人物像
義仲の人物像は、都の公家と対比される武士像の一典型として、『平家物語』や『源平盛衰記』などに、鮮やかに伝えられています。特に、信濃から北陸道を経て京都に進撃する義仲は、めざましい武勲の人として描かれます。
東国のように源氏の地盤でない木曽谷で兵をあげ、小武士団からなる北陸を勢力圏としていたにもかかわらず、全盛を誇っていた平氏政権をわずか3年足らずで打倒した武略は、彼が第一流の武将であったことを示しています。
ただ、覚明(かくみょう)という僧以外に有能な政治顧問のいなかったことが、義仲の致命的弱点であったとされています。そのため、情に厚い武将でしたが、武士社会のなかに強い地盤を築く余裕もなく、没落していかざるをえなかったのでした。
まとめ
平氏打倒を掲げて挙兵し、征夷大将軍にまで登りつめた木曽義仲。その短いながらも壮絶な生涯から、彼もまた、清盛・頼朝に並ぶ源平合戦の主役の一人とも言えるのではないでしょうか。
文/豊田莉子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)