はじめに-藤原頼経(九条頼経)とはどんな人物だったのか

藤原頼経(九条頼経)は、鎌倉幕府4代将軍を務めた人物です。源頼朝の遠縁であることからわずか2歳で将軍に迎えられました。しかし、あくまで北条氏の独裁下で形式上の将軍に過ぎませんでした。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、摂家から迎えられた摂家将軍(演:未定)として描かれます。

目次
はじめに-藤原頼経とはどんな人物だったのか
藤原頼経が生きた時代
藤原頼経の足跡と主な出来事
まとめ

藤原頼経が生きた時代

藤原頼経(よりつね)が生まれたのは、頼朝の次男・実朝が3代将軍を務めた時期です。その頃には多くの御家人らの権力闘争がなされ、執権である北条家が強い力を持っていました。そして実朝が暗殺されたことで鎌倉に迎え入れられた頼経でしたが、実質的な将軍職は北条家が担いました。彼の生涯は、鎌倉幕府ひいては執権である北条家に左右されたものでした。

藤原頼経の足跡と主な出来事

藤原頼経は、建保6年(1218)に生まれ、康元元年(1256)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

摂関家に生まれる

藤原頼経は、建保6年(1218)に摂関・藤原道家(九条道家)の三男として生を受けます。母は太政大臣・西園寺公経の娘である綸子(りんし)。公経の妻すなわち頼経の外祖母が源頼朝の姪であったため、頼経はわずかながら源氏の血を引いて生まれました。彼の幼名「三寅(みとら)」は、寅歳の正月寅の月の寅刻に生まれたことに由来するとされます。

鎌倉へ迎えられる

承久元年(1219)に3代将軍・実朝が殺されると、実朝には子どもがなかったため、源氏の正統は絶えてしまいました。その後、北条氏によって、源頼朝の遠縁にあたる頼経がわずか2歳で鎌倉に迎えられます。執権・北条義時はもともと皇族を将軍に迎える方針を立てていましたが、後鳥羽上皇はこれを拒絶。その代替案として、摂関家から将軍を迎えることとなったのでした。

承久3年(1221)の「承久の乱」には無関係だった頼経ですが、元仁元年(1224)6月の「伊賀氏の変」では廃立の危険がありました。というのも、この年に死去した執権・義時の後妻であるのえ(伊賀の方)が、自身の娘婿を将軍に据えようと企てたのです。しかし、後見人として将軍代行を務めていた北条政子の奔走でこれを回避します。

「摂家将軍」となる

嘉禄元年(1225)、新たに執権となった北条泰時は、頼経を元服させ、「頼経」と改名させます。そして翌年には征夷大将軍に任名。わずか9歳で「摂家将軍」となったのでした。その後、寛喜2年(1230)12月、2代将軍・源頼家の遺姫で28歳の竹御所(たけのごしょ)鞠子と結婚。しかし、幕府の実権は執権・北条氏が握っており、頼経は名目上の将軍に過ぎませんでした。

子に将軍職を譲渡

仁治3年(1242)、武家政治確立に貢献した執権・泰時が60歳で没すると、その後継者として4代執権に就任したのは、弱冠19歳の経時(つねとき)でした。この政権交代の背景には、泰時の嫡子・時氏(経時の父)が早世していた事情がありました。

また、この頃には、頼経も20歳を越え、長期の在職によって名越流北条、三浦、千葉といった御家人らや、評定衆などの側近と親密となり、執権に対抗するような勢力を形成しました。するとこれを恐れた執権・経時は、寛元2年(1244)に頼経の将軍職を解任。子・頼嗣(よりつぐ)に譲らされたのでした。ただ、頼経は将軍職を解かれた後も「大殿(おおとの)」と呼ばれ、幕府に残り、元将軍としての権威を保ち続けたとされます。

「宮騒動」で京都へ追われる

翌年には出家した頼経でしたが、なお声望を保ち続けました。一方、頼経を将軍の座から追い立てた執権・経時でしたが、自らも病弱だったため、弟・時頼(ときより)に執権職を譲り、その後没したのでした。

寛元4年(1246)、これを機に義時の孫にあたる名越光時(みつとき)が、5代執権・時頼政権打倒をはかります。しかし、それは鎌倉中の騒擾を招き、時頼によって機先を制せられ、逆に光時は弟・時幸とともに出家に追い込まれました。そして、これに関わったとされる頼経派の評定衆の後藤基綱・藤原為佐・千葉秀胤・三善康持らは罷免、光時も伊豆へ配流とされたのでした(=「宮騒動」)。

この事件を契機に反対勢力の除去に尽力した執権・時頼によって、頼経は鎌倉を追われ、京都へと送還されました。京都でも頼経の実家・九条家の勢力は一掃されています。この事件によって、父・道家も関東申次(もうしつぎ)を解任されて権勢を失い、失脚。代わって関東申次を世襲することになった西園寺家の勢力が伸張しました。

九条家のその後

宝治元年(1247)には、北条氏と三浦氏との間で合戦が起こります。この際、頼経の寵臣であった三浦泰村・光村兄弟らが、頼経を京都まで護送したのち、再び鎌倉に迎える考えを持っていたといわれています。これに対して警戒を強めた執権・時頼は、翌年に外戚・安達景盛らと謀って三浦氏を挑発し、鎌倉において三浦氏一族を滅ぼしました(=「宝治合戦」)。

その後も、頼経の家臣・足利泰氏(やすうじ)が所領を没収され、僧・了行(りょうこう)らが陰謀の疑いで処断されるなどの事件が続きましたが、これらの背後には道家・頼経父子の存在があったことが濃厚だといわれています。建長4年(1252)2月に父・道家が死ぬと、3月には5代将軍・頼嗣も京都に追却されました。

そして康元元年(1256)8月、頼経が死去。鎌倉幕府に翻弄された彼の生涯は39歳で幕を閉じたのでした。ただ、同年9月には子・頼嗣も没し、相つぐ父子の急死の背後に何事かの存在が推測されることも。頼経・頼嗣父子2代を「藤原将軍・摂家将軍・公卿将軍・七条将軍」などと呼びます。

まとめ

「摂家将軍」として幼いころから幕府に迎え入れられた「藤原頼経」。その進退および生涯は、執権である北条家に大きく影響されていました。鎌倉初期の幕府と執権を取り巻く潮流を象徴している人物だといえるのではないでしょうか。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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