「関ヶ原の戦い」で大勝利、天下人への道を決定づける
文禄元年(1592)には、秀吉の命により、朝鮮出兵に参陣。家康は渡海こそしませんでしたが、肥前名護屋に在陣していました。
その後、慶長3年(1598)8月、秀吉は遺児・秀頼 (ひでより) と天下の政事を五大老と五奉行に託して死去。朝鮮出兵の状況が暗転し、国内の世情も不安定な時でした。五大老筆頭の家康がまず行ったことは、朝鮮にいる諸大名の撤兵を指揮。この時、家康は秀吉の死を秘して撤退作戦を完遂しました。
慶長5年(1600)、「天下分け目」といわれた「関ヶ原の戦い」で石田三成率いる西軍と激突。総勢18万以上の兵が参戦した大戦はわずか6時間ほどで終了。徳川家康率いる東軍が大勝利をおさめます。戦いに勝利した家康は、翌年2月頃まで所領の没収、減封 (げんぽう) ・加封 (かほう) を伴う諸大名の全国的な大移動を断行しました。
征夷大将軍に就任、江戸幕府を開く
その後、慶長8年(1603)2月12日、家康は伏見城で任将軍の宣旨(せんじ)を受け、征夷大将軍に就任。源頼朝以来の伝統的な権限を手中にし、江戸幕府を開きます。
慶長10年(1605)、家康は将軍職を秀忠 (ひでただ) に譲り、自身は大御所に。2年後には、駿府城に引退しました。このことは、家康死亡時に予想される御家騒動を未然に防止する意図があったと考えられています。
その後、方広寺 (ほうこうじ) の鐘銘事件 (しょうめいじけん)に端を発した大坂冬・夏の陣が慶長19年(1614)と元和元年(1615)に勃発。この方広寺の鐘銘事件はきっかけにすぎず、真の原因は一大名に過ぎない豊臣秀頼が江戸への参勤を拒否するなど、幕府への服従をしなかったことから、家康の意思で起こしたものだと一説には言われています。
元和元年(1615)に豊臣秀頼と淀殿が自害し、家康は名実ともに天下人に。大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした家康は、そのまま京都にとどまり「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」と「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を制定し、幕府の基礎を固めました。
元和2年(1616)には、太政大臣に任じられています。このことは、頼朝以来の武家政権の伝統の上に幕藩体制を位置付けることを主眼にしていました。
同年4月17日、家康は75歳で没しました。遺命により死去したその日のうちに、久能山 (くのうざん) に埋葬されます。家康は、江戸でも京都でもなく、幼い頃と晩年を過ごした駿河の地を埋葬地として選んだのでした(翌年、日光山に改葬)。
まとめ
天下人となり、260余年の泰平の世を築いた徳川家康の生涯は、苦難の連続でした。そのことは家康自身が残した「勝つことばかり知りて負くるを知らざれば、害その身に至る」という言葉が表しています。「負ける」ことをよく知っていたからこそ、家康は征夷大将軍として武将の頂点に君臨したのでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/末原美裕(京都メディアライン Facebook)
アニメーション・写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
ナレーション/敬太郎
協力/静岡県観光協会
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)