はじめに-頼朝を支えた御家人たち

源平合戦での勝利を経て、幕府を開き、武家政権を確立した人物である源頼朝。その輝かしい歴史的功績の影には、彼を支えた数々の御家人たちの姿があります。彼らは信頼する頼朝のそばで、激動の時代を生き抜きました。今回は、勇猛果敢な伊豆の武士・仁田忠常、下総の大物・千葉常胤、頼朝の側近・結城朝光を紹介します。

目次
はじめに-頼朝を支えた御家人たち
各人物の紹介
まとめ

各人物の紹介

ここからは、頼朝を支えた御家人の代表として仁田忠常、千葉常胤、結城朝光の3人を取り上げ、紹介していきます。

仁田忠常

仁田忠常(にったただつね)は、源頼朝の挙兵以来彼に仕え、平氏討伐・奥州征伐に活躍した武将です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、笑顔がトレードマークの、北条を支える伊豆の武士(演:高岸宏行)として描かれます。

忠常は、仁安2年(1167)伊豆国仁田郷(=現在の静岡県田方郡函南町)に生まれます。その後、治承4年(1180)の「石橋山の戦い」にて、源頼朝に従いました。以降、頼朝からの信任が厚く、文治3年(1187)正月、忠常が危篤に陥った時には頼朝みずから彼を見舞っているほどです。

平氏追討のために西海に下った源範頼(のりより)に従って九州に渡り、「奥州合戦」にも従軍。また、建久元年(1190)ならびに建久6年(1195)の頼朝上洛にも従ったとされます。さらに、同4年(1193)5月の「富士の巻狩り」において、父の仇討ちのために乱入した曾我祐成を討ち取りました。『曾我物語』には、忠常が猪に飛び乗った逸話が描かれています。

建仁3年(1203年)9月、2代将軍・頼家の外戚として権勢を握った比企能員(ひきよしかず)とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた「比企氏の乱」が勃発。忠常は時政の命により、北条時政の自宅である「名越邸」(なごしてい)へやってきた能員を取り押さえ、誅します。しかし、能員の死を知った将軍・頼家は憤り、和田義盛と忠常に北条時政の討伐を命じたのでした。義盛はこの命令に応じず、時政に内通しましたが、曖昧な態度を示した忠常は疑われます。

この命を受けながら、忠常は勲功の賞を受けるため時政邸に足を運びました。同夜その帰りの遅れを怪しんだ兄弟・郎党らが軽挙したことで、忠常は謀反の疑いをかけられてしまいます。その後、時政に滅ぼされ、37歳の若さでこの世を去りました。

千葉常胤

千葉常胤(つねたね)は、平氏追討、奥州征伐などで戦功を立て、鎌倉幕府創設に尽くした武将です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、再起を図る頼朝の求めに応じ、一族を率いて参陣した下総の大物(演:岡本信人)として描かれます。

常胤は、元永元年(1118)に下総権介・平常重(つねしげ)の子として生まれます。下総国千葉に住し、下総権介、千葉荘検非違所(しょうけびいしょ)などを継承しました。治承4年(1180)9月、源頼朝が挙兵に失敗して安房に移った時、一族を率いて頼朝に従ったことで信頼を得ました。常胤は御家人の筆頭として重視され、行賞なども常に最初に与えられたとされます。

源平合戦、奥州合戦などに出陣し、鎌倉幕府の成立に貢献したことで、下総をはじめ、肥前、薩摩、美濃、陸奥などに多くの所領を得ます。それにより千葉氏発展の基礎を固めたのでした。また、政子が頼家を懐妊したときには妻が腹帯を整え、生後7日目の祝いである「七夜(しちや)の儀」を主催。文治3年(1187)には洛中警護のために上洛するなど、東国御家人の重鎮とされました。

素朴で誠実な人物で、つねに御家人の筆頭として頼朝に重んじられ、毎年年頭に将軍に奉る祝膳なども彼が務めました。頼朝の死後、正治元年(1199)に梶原景時弾劾の署名に加わりますが、翌年の建仁元年(1201)3月には82歳で死去。常胤には息子が6人おり、嫡子・胤正(たねまさ)は千葉介として家を継ぎ、他5人もそれぞれの地で家を興し、それぞれに発展しました。

結城朝光

結城朝光(ともみつ)は、源頼朝の乳母の三男にあたり、母を介して頼朝の側近として仕えた武士です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、鎌倉幕府草創期より頼朝を支えた、下総結城氏の祖(演:未定)として描かれます。

朝光は、仁安2年(1167)に寒河尼(さむかわのあま)の子として生まれます。母親が源頼朝の乳母であった関係から、頼朝の烏帽子子(元服の際、特定の人に烏帽子をかぶせてもらう者)となり、側近として仕えて厚く信頼されました。

寿永2年(1183)、野木宮合戦の勲功賞として下総国結城郡を与えられ「結城氏」を称することとなります。文治5年(1189)の奥州征伐では、金剛別当秀綱(こんごうのべっとうひでつな)を討ち取るなどの活躍をみせました。また、文武両道に通じ、建久6年(1195)の東大寺供養の際、頼朝の随兵と衆徒との争いを弁舌で鎮めて名声をあげたと伝えられています。

頼朝の死後、正治元年(1199)には幕府の宿老による「十三名の合議制」が発足。そのうちの一人である梶原景時が、朝光の発言を将軍に対する反意として讒言しました。これに驚いた朝光は、和田義盛・三浦義村ら他の御家人たちの談合を画策。御家人66名による、景時の糾弾状を作成したのでした。つまり、朝光は「梶原景時の変」のきっかけをつくった人物と言えるでしょう。

その後の「和田義盛の乱」「承久の乱」でも功を立て、幕府の宿老として重きをなす人物となりました。嘉禎元年(1235)には、幕府の最高機関である「評定衆」に列せられます。そして建長6年(1254)、88歳で生涯を閉じました。

まとめ

合戦に出陣し、命を懸けて頼朝を支えた御家人たち。なんのために命がけで戦い、なぜ頼朝を主君としたのか。御家人一人一人によって、この問いへの答えは異なるはずです。出自の違う武士たちが頼朝の下に集ったことで、幕府という大きな組織へ発展していく…… 御家人を通してこの過程を知ることにも、ひと味違った面白さがあるのではないでしょうか。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

 

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