はじめに-梶原景時の変とはどんな戦いだったのか

「梶原景時の変」は「十三人の合議制」のひとり・梶原景時(かげとき)が起こした政変です。幕府に仕えた景時は、頼朝の死後、幕府に背いて討伐を受け、一族もろとも戦死しました。「梶原景時の変」は具体的にはどのように起こったのでしょうか。

目次
はじめに-梶原景時の変とはどんな戦いだったのか
梶原景時の変はなぜ起こったのか?
関わった武将たち
この戦いの戦況と結果
まとめ

梶原景時の変はなぜ起こったのか?

源頼朝が挙兵した折に彼を助けたことで信任を得た梶原景時は、その巧みな弁舌と才智によって、鎌倉幕府内で重用された武将です。教養に優れ、沈着かつ冷徹な官僚的存在として家臣団を助けました。源義仲の追討や平家追討の軍に加わり上洛、功があった人物ですが、その官僚的な側面が、他の関東御家人との間に複雑な対立関係を生んだのでした。

また、景時はしばしば讒言、すなわち人を陥れるために、事実を曲げたり偽ったりして目上の人に告げる行為を行い、周囲の御家人との軋轢を生んでいました。例えば「壇ノ浦の戦い」の後、武将の夜須行宗(やすゆきむね)が平氏方の家人2人を生け捕りにした功績の恩賞を願い出ると、景時はこれを夜須行宗の手柄ではないと主張します。この件は訴訟となり、証人が夜須行宗の戦功を裏付けたため、景時の敗訴で終わりました。

また、権勢欲も強く、和田義盛が務めていた侍所の別当職を望み、臨時別当となり、9年間も返さなかったとされます。景時のこれらの性格、それに加えて京都的な教養は、他の東国武士に好感を持たれませんでした。それだけではなく、御家人たちを監視する立場にあったため、必然的に周囲の恨みを買いやすかったのです。

それでも数少ない教養人であった景時は、鎌倉政権が安定するにつれてその事務能力の高さから重要な存在となりました。建久3年(1192)には侍所の別当に就任します。

頼朝の死後、正治元年(1199)に幕府の宿老による「十三名の合議制」が発足。景時もそのひとりとして参加しました。その年の秋、御家人衆のひとりである結城朝光(ともみつ)が「忠臣は二君に仕えずと言う。先代将軍を失ったときに出家すべきであった。ご遺志によりそれが叶わなかったことが残念である」と嘆いたことがありました。

この言葉を伝え聞いた梶原景時は、激怒しました。「忠臣は二君に仕えず」という発言が現在の主君である源頼家への反意であるとして、将軍に讒言します。これに驚いた朝光は、和田義盛・三浦義村ら他の御家人たちの談合を画策。御家人66名による、景時の糾弾状が一夜で作成されたと伝えられます。通信も交通も不便だった時代に「一夜で」糾弾状が作られたという流れに御家人らの思いが感じられるでしょう。

正治元年(1199)10月28日、御家人らは鶴岡八幡宮の廻廊に集まって、同心を誓い、弾劾文に連署し、頼家にさし出すべく大江広元に托しました。景時排斥の連署状を受け取った頼家は、景時に陳弁を求めましたが景時は弁解できず、11月13日には一族を率いて鎌倉を去ったのでした。

関わった武将たち

梶原景時の変に関わった、主な武将をご紹介しましょう。

梶原氏方

・梶原景時

梶原景時

頼朝の挙兵間もない時期、平氏方ながら彼の危機を救い、絶大な信頼を得た武将。「十三人の合議制」のひとりに数えられながらも、他の御家人らとの対立により滅ぼされる。

御家人衆

・結城朝光

母を介して頼朝の側近に仕えた武士。梶原景時によって、頼家に対する謀反を讒言される。このことが「梶原景時の変」の引き金となる。

・三浦義村

三浦義村

源頼朝の挙兵以来の武将。朋友・結城朝光の相談を受け、梶原一族を退けるという政治的手腕をみせる。

・和田義盛

常に頼朝に近侍してその信頼を得た武将で、侍所の初代別当となった人物。「十三人の合議制」のひとり。梶原景時によって、その職務を二分される。

この戦いの戦況と結果は? 次ページに続きます

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