はじめに-足立遠元とはどんな人物だったのか

足立遠元(あだちとおもと)という人物を知っていますか? 足立遠元は、武蔵足立群の在地武士でしたが、平治の乱で源義朝に従ったのち、「十三人の合議制」ではその一員に加わった人物です。武士出身でありながら、公家としての役割も果たし、軍事以外の行政を執り行うことにも長けた人物だったとされています。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、幕府の公文所で働く御家人(演:大野泰広)として描かれます。

今回は、「十三人の合議制」メンバーの一人でもあった足立遠元の生涯や人物について迫っていきましょう。遠元の生涯を辿ることで、謎多き遠元の人物像を紐解けるかもしれません。

⽬次
はじめに
足立遠元が生きた時代
足立遠元の足跡と主な出来事
遠元ゆかりの地
まとめ

足立遠元が生きた時代

足立遠元の具体的な生没年はわかっていません。しかし、平治の乱の際には源義朝に従ったとされているため、平治元年(1159)には武将として活躍していたと考えられています。

そして、後に「十三人の合議制」の一員に取り立てられていることから、平安時代後期から鎌倉時代の初期という大きな時代の過渡期に活躍した人物のようです。

足立遠元の足跡と主な出来事

生没年もわかっておらず、謎の多い人物ですが、足立遠元は一体どのような生涯を送ってきたのでしょうか。早速、辿ってみましょう。

藤原遠兼の子として生まれる

遠元は、藤原遠兼の子として生まれたことはわかっていますが、生年月日はわかっていません。現在の東京都足立区から埼玉県北足立群のあたりにあたる、武蔵国足立群の在地武士です。遠元の代から、足立を名乗るようになったと言われています。

平治の乱において源義朝に従い、実力を認められる

平治元年(1159)には、平治の乱が勃発します。平治の乱とは、源頼朝の父である源義朝が、後白河上皇の寵臣である藤原通憲と結んだ平清盛を打倒しようとして挙兵した内乱です。義朝は、通憲と対立していた藤原信頼と結託して後白河上皇を幽閉し、通憲も殺害。

しかし、清盛に敗れ、義朝と信頼は殺害されてしまいます。平治の乱によって源氏の勢力が一時衰退し、平家が力を持つようになりました。

この平治の乱の際、遠元は義朝に従い、源義平が率いる十七騎の一人として武勲を挙げ、実力を認められます。

頼朝の信任を得て、武蔵国足立群の所有権を得る

治承4年(1180)から文治元年(1185)年にかけて、治承・寿永の乱が勃発します。治承・寿永の乱は、鎌倉幕府成立の要因にもなった全国的内乱。1170年代から平清盛を中心とする平家一門の権勢が非常に高まっており、平家の独裁政治に対する貴族層や、寺院、地方武士などの反発をきっかけに起こった反乱です。

遠元は、治承4年(1180)、義朝の子である頼朝が挙兵した際、最初に頼朝の迎えに参上したとされています。こういった出来事によって、頼朝から信任を得て、武蔵国足立群を本領とし、所有権を得ました。

この出来事は、頼朝が東国の武士に本領所有権を譲渡する最初の事例となったそうです。

公文所が設置され、そのメンバーに選ばれる

元暦元年(1184)になると、公文所が設置されます。公文所とは、公文書などの文書の保管や政務の処理を行う、幕府にとって重要な機関のことです。

頼朝は、大江広元を公文所の長である別当に据え、中原親能、藤原行政、中原秋家、藤原邦通、遠元の五人を寄人として抜擢しました。

平治の乱をはじめ、治承・寿永の乱など様々な合戦に参加して功績を残した武将でありながらも、公文所のような行政に携わる文官として抜擢されていることから、遠元が文武ともに秀でた人物であったことが窺われるのではないでしょうか。

頼朝から左衛門尉に任ぜられる

建久元年(1190)には、奥州での合戦においても武勲を挙げ、その功として左衛門尉に任ぜられたそうです。その他にも、頼朝が上洛した際にも同道し、参院の供奉を行ったとも。もともと藤原氏の出身であった遠元は、幕府側から、朝廷との繋がりを期待されていたのかもしれないと考えられています。

「十三人の合議制」のメンバーに加えられる

正治元年(1199)に頼朝が亡くなると、2代将軍に頼朝の子である頼家が就任します。北条政子は、頼家の権力の暴走を恐れて、「十三人の合議制」という制度を導入します。13人の有力御家人の合議によって政治を行うための仕組みで、これによって頼家の独裁を抑えようとしたのです。

この13人のうちの一人に遠元も選ばれます。

遠元の最期

遠元の生没年はわかっていません。鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』にある遠元に関する記述は、建永2年(1207)、闘鶏会へ参加したという記録が最後です。これ以降、遠元に関する記述が見られないため、この時期からほどなくして亡くなったのではないかと考えられています。

遠元ゆかりの地

埼玉県桶川市末広に、足立遠元館と呼ばれる平城が残されており、平安時代末期ごろに遠元が築城したそうです。桶川市総合福祉センターに「伝足立右馬允遠元館跡」の石碑があります。

ところが、遠元の屋敷が本当にこの場所にあったのかは特定されておらず、諏訪雷電神社も遠殿の館跡の可能性があるともいわれ、詳しいことはわかっていません。

まとめ

足立氏は、弘安8年(1285)に起こった霜月騒動が原因で没落してしまいます。しかし、遠元の娘の一人は、後白河天皇の近臣であった藤原光能に嫁ぎ、子を産んでいます。他の娘も、畠山重忠や初代連署の北条時房と結婚しており、遠元は、朝廷と幕府両方の要人と関係が深い人物であったようです。

これらのことから、遠元は秀でた御家人であったと共に、政治にも精通する文人であったことが推測できます。

文/清水鳴瀬(京都メディアライン・http://kyotomedialine.com
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本国語大辞典』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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