この戦いの戦況と結果
景時は一族とともに、所領のある相模国一ノ宮へ退きます。そこで、甲斐の武田有義(ありよし)を将軍に立てようとの謀叛を企てたのでした。
翌年の正治2年(1200)1月20日、ひそかに京都に向かった景時らは、駿河国清見関(きよみがせき)(=現在の静岡市清水区)近くで偶然、在地武士に居合わせます。吉川氏ら在地武士に加え、相模国の飯田家義らに見つかったことで襲撃を受け、狐崎(きつねがさき)(=現在の静岡県静岡市清水区など諸説あり)にて合戦となりました。
一族は応戦するも、景時の子・梶原景茂(かげもち)、梶原景宗(かげむね)、梶原景則(かげのり)らが討死。梶原景時と嫡男・梶原景季、次男・梶原景高は後方の山へ引いて戦いますが力及ばず、討死したとも自害したとも言われています。翌日には、一族33人の首が街道に懸けられ、梶原氏の所領は収公、梶原氏に荷担した者は捕えられました。
ここまでの、梶原景時の一族が滅亡するまでの一連の政争を「梶原景時の変」と呼びます。
梶原景時の変、その後
梶原一族が滅んだのは、主君と仰いだ源頼朝の死から一年後の出来事でした。景時は、将軍・頼家の乳母夫を務めており、頼家にとって景時の失脚は大きな損失だったとされます。
その後、建仁3年(1203)5月には、頼朝の弟・阿野全成(ぜんじょう)が謀反を企てたとして捕らえられ、誅殺される事件が起こります。また、同年9月、こちらも頼家の乳母夫であった比企能員が北条時政に暗殺され、一族は北条義時らによって討たれた「比企氏の乱」が勃発。比企一族の滅亡に激怒した将軍・頼家は、北条政子によって出家させられ、修禅寺に幽閉、その後暗殺されます。
このように、梶原景時一族の滅亡を皮切りに、幕府内の権力闘争が幕を開けたのでした。その結果、北条氏が政権を掌握。時政は源頼家の弟である源実朝(さねとも)を将軍に立て、鎌倉幕府の実権を握ったのでした。
まとめ
源頼朝の信任が厚かった梶原景時が、御家人らの弾劾にあって鎌倉を追放され、滅ぼされた「梶原景時の変」。頼朝の死後、潜在していた御家人間の対立が初めて表面化した事件となりました。ここから始まる、権力闘争の激しさを予感させる政争だと言えるのではないでしょうか。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)