はじめに―十三人の合議制が生まれた背景
「十三人の合議制」とは、源頼朝の死後、鎌倉幕府に発足した集団指導体制のことを指します。若くして即位した二代将軍・頼家を補佐するという名目で作られました。
2022年NHK大河ドラマのタイトル『鎌倉殿の13人』は、この「十三人の合議制」を構成する「13人」を意味しています。
⽬次
十三人の合議制とは
十三人の合議制のメンバーと役割
十三人の合議制の実態
まとめ
十三人の合議制とは
鎌倉幕府では、源頼朝の死後、十三人の有力御家人らが協議によって政務を行いました。この運営体制を「十三人の合議制」と呼びます。
建久10年(1199)1月に将軍・頼朝が突然の死を迎えると、嫡男である頼家が二代目将軍に就任しました。しかし、幕府はその僅か3か月後に「十三人の合議制」を導入することとなったのです。
合議制の導入は、年若い頼家を補佐するための仕組みと捉えられます。しかしその一方で、頼家を政治的実権から遠ざけ、将軍への権力集中を抑止するという意図があったとも考えられています。
「十三人の合議制」のメンバーと役割
「十三人の合議制」は、有力御家人らによって構成されました。では、具体的にはどのような御家人が名を連ねたのでしょうか?
なぜ、この十三人が選ばれたのか?
合議制を担ったのは、北条義時(ほうじょう・よしとき、演:小栗旬)、北条時政(ほうじょう・ときまさ、演:坂東彌十郎)、比企能員(ひき・よしかず、演:佐藤二朗)、安達盛長(あだち・もりなが、演:野添義弘)、和田義盛(わだ・よしもり、演:横田栄司)、梶原景時(かじわら・かげとき、演:中村獅童)、大江広元(おおえ・ひろもと、演:栗原英雄)、三善康信(みよし・やすのぶ、演:小林隆)、三浦義澄(みうら・よしずみ、演:佐藤B作)、中原親能(なかはら・ちかよし、演:未定)、二階堂行政(にかいどう・ゆきまさ、演:未定)、足立遠元(あだち・とおもと、演:未定)、八田知家(はった・ともいえ、演:未定)という十三人の御家人でした。当然、彼らは無作為に選出されたわけではありません。
なぜ彼ら十三人の有力御家人らが選出されたのでしょうか?
まずは、鎌倉幕府の重要な役職を務めていた4人の人物が選出されました。政所別当であった「大江広元」、問注所執事であった「三善康信」、侍所別当であった「和田義盛」、侍所所司であった「梶原景時」らが該当します。
続いて、読み書きが得意な文官の枠で選出されたのが「中原親能」と「二階堂行政」だと考えられています。文官は、頼朝の鎌倉幕府発足の際から重用された存在であったことが知られています。読み書きができない武士の中では文官が政権運営の中心に置かれる場合が多く、それは「十三人の合議制」も例外ではありませんでした。
また、読み書きができ、文武に優れた武士は、文官を兼ねた御家人として名を連ねました。こちらは「北条時政」と「足立遠元」が該当します。
さらに、源氏将軍家との姻戚枠というのも選出理由のひとつであったと考えられています。頼朝の正室である政子との結び付きを持つ「北条義時」とその父「北条時政」のことです。また「比企能員」に代表される比企一族にも、将軍家との血縁的な繋がりが見て取れます。娘が頼家に嫁いだ能員は、二代目将軍の外戚として幕府の中枢を担っていました。さらに、頼家の乳母・比企尼(ひきのあま)の娘婿である「安達盛長」は古くから頼朝に寄り添った家臣でした。
ここまで紹介した、役職枠、文官枠、文官兼任枠、姻戚枠という四つの選出理由のいずれにも当てはまらない人物がいます。その一人である「三浦義澄」は、相模国を代表する武士で三浦半島に非常に大きい勢力を有していました。彼は地理的に北条氏と近しい関係にあったことから、北条時政の意向により選出されたのではないかと推察されています。
残る一人に当たる「八田知家」は、常陸国の有力武士であった多気義幹の挙兵を未然に防ぎ、討ち取った人物です。義幹が北条時政と通じていたとするならば、彼を討った八田知家は反北条派、つまり梶原景時ら頼家派に属すると考えられます。つまり、三浦と八田は北条派・反北条派という派閥同士の思惑から、その選出が決定されたと言えます。
また、乳母の存在に目を向ければ別の視点から考えることもできます。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、乳母や継母といった女性たちの権力は大きかったようです。そのため、鎌倉幕府は、頼家の乳母に関係する御家人が中心を占めていました。頼家の乳母として知られているのは、先述した比企尼に加えて、山内尼(やまうちのあま)、寒河尼(さむかわのあま)、そして三善康信の伯母の四人です。この内、寒河尼は八田知家の縁者であったことから、彼は乳母枠で選出されたとも考えられています。
それぞれの役割は?
こうした十三人は、役職枠、文官枠、文官兼任枠、姻戚枠など多方面から選出されることで多様な役割を担っていたことが分かります。この内、文官に注目をすると、文官及び文官を兼任する武人の役割を担った人物は計7人と、約半数を占めています。一方、武力・軍事力からすれば申し分ないにもかかわらず選ばれなかった有力御家人もいました。このことから、合議制は政権運営のための文官的な能力を重視するものだったと言えるでしょう。
「十三人の合議制」の実態
このような十三人から構成された合議制ですが、互いにどのような関係を築いていたのでしょうか? ここからは、十三人の中に見え隠れする対立構造に目を向けていきます。
対立の構図
先ほど「三浦義澄」と「八田知家」が選出された理由を考える上で、北条派と反北条派という対立軸があることに触れました。北条時政を筆頭とする北条派には、息子である北条義時、地域的に近しい関係にあった三浦義澄、同じく三浦一族である和田義盛、頼朝と政子との結婚を取り持った安達盛長が所属します。
これに対する反北条派というのは、梶原景時と比企能員を筆頭とした頼家派のことを指します。頼家の外戚である比企能員や、頼家の家臣である梶原景時は、幕府内の権力争いにおいて北条氏と対立する関係にあります。この反北条派には先ほど挙げた八田知家に加えて、足立遠元が所属します。足立遠元は、北条氏の意向が強い歴史書『吾妻鏡』に名前が挙がらないことから北条派ではない、すなわち反北条派であると考えられています。
「十三人の合議制」は、こうした北条派・反北条派が入り乱れ、権力を巡る対立構造が築かれていたのです。
その後、正治元年(1199)に梶原景時が失脚。翌年には、安達盛長と三浦義澄が病死したことで、十三人の御家人らのパワーバランスは崩れることとなります。それに伴い、北条派と反北条派の対立が表面化していき、合議制は解体を迎えるのでした。
まとめ
頼朝の死後、鎌倉幕府の指揮を執ったのはこの「十三人の合議制」でした。十三人という決して少なくない人数での合議制を詳しく見ていくと、幕府という強い権力を取り巻く様々な思惑が見えてきます。
文/豊田莉子(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/