はじめに-源頼家とはどんな人物だったのか

源頼家は、若くして鎌倉幕府の第2代将軍となった人物です。初代将軍の源頼朝や、和歌の秀でた才能を持っていた第3代将軍の源実朝が有名なため、あまり馴染みのない方も多くおられるかもしれませんが、2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する「13人の合議制」が生まれるきっかけとなった人物です。

2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、源頼家役を金子大地さんが演じます。

目次
はじめにー源頼家とはどんな人物だったのか
源頼家が生きた時代
源頼家の足跡と主な出来事
まとめ

源頼家が生きた時代

源頼家が生きた時代は、将軍と御家人が、土地の給与を通じて主人と従者、御恩と奉公という関係によって結ばれていた時代です。これを、封建制度と呼びます。

鎌倉幕府は、日本で初めて封建制度に基づいて成立した政権です。そして、優れた指導者であり、実質的に幕府を独裁していた源頼朝が亡くなって以降は、頼家が若かったこともあり、御家人中心の政治が進められるようになりました。

源頼家の足跡と主な出来事

頼家が生きた時代の背景の大枠を把握したところで、さっそく、頼家の足跡と主な出来事について辿っていきましょう。

源頼朝の子として誕生

頼家は、寿永元年(1182)に鎌倉幕府初代将軍である頼朝の長子として生まれました。母親は、後に「尼将軍」と呼ばれた北条政子です。

父頼朝の死

建久9年(1198)の暮れに、父頼朝が落馬し、それが直接的な原因となって正治元年(1199)の初めに突然亡くなります。この落馬が事故であったのか、何者かが意図的に仕組んだことなのかは、今でも議論されています。

というのも、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』には、建久7年(1196)からの9年間の記録が一切抜け落ちているため、頼朝の死についても簡略的にしか触れられていないため、不審に捉えられています。

2代目将軍に就任

正治元年(1199)、頼家は17歳で頼朝の家督を継ぐことに。3年後の建仁2年(1202)には、征夷大将軍に任命されます。

征夷大将軍に就任するも「十三人の合議制」に幕政の実権を奪われる

幕府の権力を我が物とし、独裁的に政治を行っていたとされる頼朝とは異なり、まだ20代になったばかりの頼家は若く、また人間的にも幼かったようです。『吾妻鏡』にそのような記録が残されており、「暗君」として描かれています。

そのため、御家人たちは頼家の権力を制限することと、頼家の外家である比企氏が台頭してくることを抑制するために、「十三人の合議制」が導入されました。政治の判断や決定は、有力御家人の合議で決められることに。この結果、頼家は独裁することが出来ず、権力が制限されました。

主要なメンバーは、大江広元、三善康信ら頼朝側近と、北条時政、北条義時、梶原景時、三浦義澄、比企能員、和田義盛ら有力御家人からなる13人といわれています。

頼家、病にて倒れた後、将軍職を奪われる

建仁3年(1203)、頼家は生死にかかわる重病を患ってしまいます。ここで、母親である北条政子が、頼家の支配する関西38か国の地頭職を、頼家の弟である実朝に分与。さらに、関東28か国の地頭職と惣守護職を頼家の長男一幡に分与するという案を立てました。

ちなみに、「地頭」とは、平安時代末期から鎌倉時代における特徴的な職(しき)のひとつです。もともと「地頭」は、現地や土地そのものを指す言葉でしたが、意味が転じて、土地を所有する在地の領主という意味が含まれるようになりました。一方、「守護」は、鎌倉時代以降に国ごとに配置された、武家の軍事的行政官のことを指します。諸説ありますが、謀反人の追討や、重罪人の捜索、逮捕、幕府の警護など「大犯三箇条」などと呼ばれる仕事が、守護の役割だったようです。

そして、政子の父である鎌倉幕府初代執権の北条時政は、頼家を廃して弟の実朝を将軍に据えようとしたのです。

頼家の後継者問題が浮上。北条氏と比企氏の対立が激化
北条氏は比企一族を攻め、頼家の嫡男・一幡もろとも討伐

頼家の後継者問題が浮上したことで、北条氏と比企氏の対立が浮き彫りに。将軍職を奪われ、反発を覚えた頼家は、同年9月に、外祖父にあたる比企能員と謀って北条氏討伐を企てました。しかし、失敗に終わり、時政によって比企氏は滅ぼされてしまいます。頼家の嫡男である一幡も討伐され、そして頼家は伊豆の修禅寺に幽閉されてしまうのです。

北条氏による刺客により、暗殺される

幽閉中、頼家は近習の参入を懇願していましたが、最後まで叶えられることはありませんでした。ちなみに、「近習」とは、「きんじゅう」、「きんず」と読み、主君の側に仕えることを指します。

最終的には、元久元年(1204)7月18日、北条氏の手兵により、修禅寺にて刺殺されてしまうのです。修禅寺に幽閉されてからの頼家を題材とした『修禅寺物語』という戯曲が、岡本綺堂によって書かれています。気になった方は、ぜひご覧になってみてください。

『修禅寺物語』は、1911年に東京明治座で初めて公演されました。当時の文芸思潮であった芸術至上主義の影響を受けており、歌舞伎の演目の一つとして組み込まれている上に、広く海外にも翻訳されています。

まとめ

頼家は、独断行動をすることが多く、なかなか御家人から信頼を得られなかったという記録が残っています。しかしながら、一方で幼い頃から才気煥発な人物だったそうです。

頼家が刺殺された修禅寺には「頼家の仮面」と呼ばれる寺宝が伝わっています。これは、岡本綺堂が『修禅寺物語』を書くきっかけとなった仮面です。顔の中心で二つに亀裂が入っており、その仮面の表情は、異様な雰囲気を放っています。仮面からも伝わる頼家の壮絶な人生を今回は紹介しました。

なかなか注目されることの少ない頼家ですが、こうしてみてみると、かなり興味深い人物なのではないでしょうか。

文/清水愛華(京都メディアライン・http://kyotomedialine.com
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本国語大辞典』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『世界大百科事典』(平凡社)

 

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