はじめに-比企氏の乱とはどんな戦いだったのか
「比企氏の乱」は「十三人の合議制」のひとり・比企能員(よしかず)が起こした政変です。2代目将軍・頼家のもとで重用された比企氏は、他の御家人との対立を深めました。では「比企氏の乱」は具体的にはどのように起こったのでしょうか。
目次
はじめに-比企氏の乱とはどんな戦いだったのか
比企氏の乱はなぜ起こったのか?
関わった武将たち
この戦いの戦況と結果
比企氏の乱、その後
まとめ
比企氏の乱はなぜ起こったのか?
正治元年(1199)、源頼朝の跡を継いで将軍となった源頼家は専恣な行動が多かったため、同年の4月には宿老による「十三人の合議制」が発足しました。比企能員も、十三人の選出された有力御家人のひとりです。頼家の乳母の夫である能員は頼家からの信頼が厚く、彼自身もまた反将軍派が多くいた鎌倉幕府内で頼家をサポートしていました。
そんな中、「十三人の合議制」のひとりで、源頼朝の右腕として絶大な権力を握っていた梶原景時(かじわらかげとき)が、謀略にかけられて幕府を追放される事件が起きます(「梶原景時の変」)。景時が失脚したことで、将軍・頼家を支える存在は比企能員のみとなりました。
この頃、能員は娘の若狭局を頼家に嫁し、彼女が一幡(いちまん)を産んでいることから、将軍の外戚となります。また、頼家の側近に自身が治める信濃の武士や子息らを送り込むなど、頼朝没後その権勢は北条氏を凌ぐようになっていきました。そうした比企氏の台頭に危機感を持っていたのが執権・北条時政でした。
そんな中、頼家が危篤になったことで、後継問題が起こります。この時、将軍職を継ぐ候補は、源頼家の嫡子である一幡と、源頼家の弟・源実朝(さねとも)の2人です。本来であれば、嫡子である一幡に全ての領地が相続されるはずでした。しかし突然、「関東二十八ヵ国の地頭職」と「日本国総守護職」を一幡に、「関西三十八ヵ国の地頭職」を実朝に譲与することが定められました。
この分割相続の決定に不満を持った能員は、同年9月に頼家が回復すると時政の専横を訴えます。源頼家も憤慨し、この分割相続の黒幕とも言える初代執権・北条時政を追討することを命じました。しかし、この密議を聞いていた北条政子が、2人の会話を父・時政に伝えたのでした。政子から報告を受けた時政は、政所別当・大江広元(ひろもと)に相談し、比企能員を誅殺する計画を企てます。
関わった武将たち
比企氏の乱に関わった、主な武将をご紹介しましょう。
比企氏方
・比企能員
将軍・源頼家の信頼が厚い、幕府の有力御家人。執権・北条時政を追討することを命じられるも、時政によって誅殺されました。
北条氏方
・北条時政
北条政子、義時の父。鎌倉幕府の初代執権を務めた人物です。台頭した比企氏の誅殺を企てます。
・天野遠景(とおかげ)
源頼朝挙兵以来の武将として源平合戦で活躍した武将。
・仁田忠常(にったただつね)
源頼朝の挙兵に加わり、平家追討で活躍した武将。
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