この戦いの戦況と結果

建仁3年(1203)9月2日、北条時政は仏事にかこつけて比企能員を誘い出します。その際、能員は息子や郎党から引き留められますが、行かなければかえって疑われると考えます。そして、最低限の従者を引き連れ、武装を一切していない状態で、北条時政の自宅である「名越邸」(なごしてい)へ向かうのでした。

すると突然、能員は天野遠景、仁田忠常など、北条時政の配下達に両腕を取り押さえられ、刺殺されます。これを聞いた能員の子らをはじめとする比企一族は、一幡の館である「小御所」(こごしょ)に籠城。しかし、政子の命により派遣された追討軍に攻められ、午後4時頃に館には火がかけられます。それにより、一幡も含めて比企一族はほとんどが自害。また、生き残っていた者たちもことごとく討伐され、比企一族は滅亡したのでした。

続けて、比企氏に加担した者たちに対する処断が行われます。この夜、能員の岳父・渋河兼忠(しぶかわかねただ)が殺され、能員与党として信濃の小笠原長経(ながつね)などが捕えられました。そして、義姉・丹後内侍の子である島津忠久(ただひさ)は大隅・薩摩・日向三国の守護職を没収されたのでした。

比企氏の乱、その後

「比企氏の乱」の後、比企氏が有していた所領はすべて没収されました。病状が回復した源頼家は、比企能員が討たれ、比企一族が滅亡したという事の顛末を知り、激怒。「十三人の合議制」のひとりである和田義盛(よしもり)らに、北条時政を討伐するように命令を下します。ですが、義盛はこの話を北条時政へ報告したのでした。

結果、源頼家は北条政子によって出家させられ、伊豆の修禅寺(=現在の静岡県伊豆市修善寺)に幽閉されます。彼は翌年の元久元年(1204)、北条氏によって誅殺され、21歳の若さでこの世を去ったのでした。そして、将軍職は頼家の弟・源実朝が継承することで、一連の騒動は幕を閉じました。

この後、建暦3年(1213)になると和田義盛が失脚し、結果的に北条氏に権力が集中していくことになります。

まとめ

幕府内で勢いを増した比企能員と、彼を快く思わない北条氏の思惑がぶつかったことで起こった「比企氏の乱」。この戦いは、一族や将軍をも巻き込む形で幕を閉じました。「十三人の合議制」は有力御家人たちの権力闘争の場となり、それにより梶原景時、比企能員と順に失脚していきます。この後、幕府は北条氏への権力集中が為されていくのでした。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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