はじめに-一ノ谷の戦いとはどんな戦いだったのか

源平合戦(治承・寿永の乱)の一つである「一ノ谷の戦い」。源義経率いる源氏軍が一ノ谷に進出して平氏の軍を破ったこの戦いは、源平合戦最大の戦であり、源平天下分け目の戦いとも言われています。そんな「一ノ谷の戦い」はなぜ起こり、どのように進められたのでしょうか。

目次
はじめに-一ノ谷の戦いとはどんな戦いだったのか
一ノ谷の戦いはなぜ起こったのか?
関わった武将たち
この戦いの戦況と結果
一ノ谷の戦い、その後
まとめ

一ノ谷の戦いはなぜ起こったのか?

寿永2年(1183)7月に、平氏一門は都落ちし、安徳天皇を擁して西海に走ります。その後政権交代を成し遂げたのは木曽義仲でしたが、平家追討の停滞、後白河上皇との対立などの悪手が重なり、翌元暦元年(1184)、頼朝の弟・義経を大将軍とする上洛軍に討たれました。

こうした源氏方の混乱に乗じて、平家は勢力を挽回。このころには旧都・福原(=現在の兵庫県神戸市)に東進し、東は生田森(いくたのもり)に、西は一ノ谷に軍陣を構えて要害を固め、京都回復を目指しました。

一方、政権を確保した源氏軍の次なる課題は、復活しつつある平家との対決でした。頼朝は義仲を倒すやただちに平氏追討の院宣を請います。朝廷では平家との和平も提案されましたが、後白河上皇の強い意志もあり、追討の方針が確認されました。

寿永3年(1184)2月1日、源氏軍は、範頼(のりより)軍が山陽道を南下し、生田口を、義経軍が丹波道を西に進み、一ノ谷口を目指し出陣しました。そして、それぞれが陣を構え、ついに2月7日早朝より合戦が開始されました。

関わった武将たち

一ノ谷の戦いに関わった、源平の主な武将をご紹介しましょう。

源氏方

・源義経

頼朝の異母弟にあたる武将。幼い頃に、鞍馬寺に入り、さらに奥州の藤原秀衡(ひでひら)のもとに身を寄せました。その後、兄・頼朝の挙兵に応じて義仲を討ち、数々の戦いで平氏を破り、全滅させた人物です。

・源範頼(のりより)

頼朝の異母弟にあたる武将。兄・頼朝の挙兵を助け、弟・義経とともに木曽義仲や平氏追討に参加しました。

平家方

・平宗盛(むねもり)

清盛の子。総大将として一門を率いる人物です。一ノ谷の戦いでは敗戦を悟ると、屋島へと逃れました。

・平知盛(とももり)

清盛の四男にあたる平安末期の武将。一ノ谷の戦いでは東の生田口の守りを固め、奮戦します。

・平忠度(ただのり)

平清盛の異母弟にあたる武将。一ノ谷の戦いでは西の一ノ谷口の守りを固め、奮戦しますが、源氏軍に討たれます。

・平盛俊(もりとし)

平清盛の側近の子にあたる、平氏の有力家人。この戦いで義経軍に討たれます。

この戦いの戦況と結果

義経軍は、丹後の城を攻略しながら、迂回して西側から一ノ谷を攻めようとします。津と播磨の境にある「一ノ谷」は、背後に峻険な山峰を連ねて入口が狭く、海上を平氏の軍船が制し、もっとも堅牢な陣地でした。そのため、戦闘は一時混戦状態になりましたが、義経は鵯越(ひよどりごえ)で兵を二分し、山側から奇襲を仕掛けます。急峻な坂道を馬で駆け降りたこの奇襲は、「鵯越の逆落とし」の名で有名です。

福原の地は、北側は山に囲まれ、南は瀬戸内海が広がっていたため、平氏の守りは東西に重点が置かれていました。しかし、山側からの奇襲により陣形は総崩れとなり、平氏側は大敗を喫します。また、大輪田泊(おおわだのとまり)に停泊していた40~50艇に乗船したままの平家軍は、出航することもできず、自ら火を放って自害したとされています。

平家の陣を源氏が東西から挟撃し、停泊中の船ごと壊滅させた一ノ谷の戦いは、開戦からわずか2時間ほどで勝敗が決しました。この敗戦で平通盛(みちもり)・忠度(ただのり)以下、一族の多くが戦死、清盛の子・重衡(しげひら)も須磨で捕らえられます。

特に、熊谷直実(くまがいなおざね)に殺された平敦盛(あつもり)の伝説は有名です。17歳の美少年であった敦盛と一騎打ちした直実は、我が子と同じ年頃であった敦盛を憐れに思い逃そうとします。しかし、他の源氏の武者から逃れることはできまいと、首を泣く泣く切りました。戦いの後、直実は武家の無情を悟り出家、高野山で敦盛を供養したと伝えられています。

そして、敗戦を悟った総帥・平宗盛は、安徳天皇や建礼門院(安徳天皇の母、また平清盛の娘)を連れ、讃岐国の屋島に敗走したのでした。これにより、平氏の京都奪還の企図は頓挫します。

一ノ谷の戦い、その後

この一ノ谷の戦いで平氏軍は敗戦。その後の寿永4年(1185)の「屋島の戦い」、平氏滅亡となる「壇ノ浦の戦い」へと続いていくこととなります。

一ノ谷の戦いでの論功行賞では、総大将であった範頼は三河守に任命されたものの、ともに戦った義経には恩賞が与えられませんでした。義経はこれを不服とし、それを見た後白河上皇が幕府を介することなく、彼を検非違使左衛門少尉に任命しました。

しかし、頼朝は御家人が許可なく任官することを禁じていたため、義経の任官に激怒。なぜなら、関東の武士の独立を目指す頼朝らにとって、朝廷の権力は距離を置きたいものであり、その朝廷からの任官は東国武士の結束がゆるぎかねないからです。そのため、規則を破った義経は平氏追討から外されました。

一ノ谷の戦いによる後白河上皇と義経の急接近は、のちに頼朝と義経の兄弟の仲を引き裂くものとなってしまいました。この戦いは、ついには義経追討にまで至ってしまう兄弟の不和のきっかけとなった戦いだったのです。

まとめ

源平天下分け目の戦いと評される一ノ谷の戦い。この戦いでは、源義経の「鵯越の逆落とし」と呼ばれる奇襲戦によって源氏が大勝し、それまで栄華を極めた平氏が、滅亡に向かうきっかけとなりました。源平合戦を語る上で外すことができない、重要な合戦だといえるでしょう。

文/豊田莉子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

 

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