はじめに-倶利伽羅峠の戦いとはどんな戦いだったのか

源平合戦(治承・寿永の乱)の一つである「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」。「砺波山(となみやま)の戦い」とも呼ばれるこの戦は、頼朝の従兄弟・木曽義仲が平家と戦ったことで知られています。では「俱利伽羅峠の戦い」はなぜ起こり、どのように進められたのでしょうか。

目次
はじめに-倶利伽羅峠の戦いとはどんな戦いだったのか
俱利伽羅峠の戦いはなぜ起こったのか?
関わった武将たち
この戦いの戦況と結果
倶利伽羅峠の戦い、その後
まとめ

俱利伽羅峠の戦いはなぜ起こったのか?

治承・寿永の乱、世にいう「源平合戦」は、治承4年(1180)に始まり、およそ10年にわたり全国的に展開された源氏と平氏の武家棟梁の覇権争いのことを指します。

治承4年(1180)4月、以仁王の令旨を受けて挙兵したのは、頼朝だけではありません。信濃国(=現在の長野県)を拠点としていた木曽義仲もまた、平氏討伐のため挙兵したのでした。平家方の小笠原氏を越後国に走らせ、父の地盤であった上野国に進出しました。

翌年には平氏側の越後国の城助茂(じょうすけもち)の大軍を壊滅させ、その後、義仲追討に下向した平通盛(みちもり)らの軍を越前国水津(すいづ=現在の福井県敦賀市)で破り、北陸道をほぼ平定します。反平氏の動きの活発な中で、北陸道から都へ上るという思惑があったとされています。

寿永元年(1182)は、全国的に戦局が動かず、京都の平氏、東国の源頼朝、北陸道の義仲と三勢力鼎立の状況を呈しました。ただ平氏側は、2年にわたる西国の飢饉のため、近畿からの食糧調達が難しくなっていました。補給路の意味合いもあり、平氏にとって北陸の街道は、何としても死守しなければならないものでした。そのため、寿永2年(1183)4月、清盛の孫・平維盛(これもり)や通盛(みちもり)ら十万の大軍が北陸道へ派遣されます。

この進軍を義仲軍が迎え討つ形で、寿永2年(1183)5月に、越中・加賀国境(=現在の富山県と石川県の県境)、砺波山の俱利伽羅峠で繰り広げられた戦いが、「俱利伽羅峠の戦い」です。

関わった武将たち

俱利伽羅峠の戦いに関わった、源平の主な武将をご紹介しましょう。

源氏方

・木曽義仲

本名は源義仲で、頼朝の従兄弟に当たる人物。信濃国(=現在の長野県)の木曽で育てられました。平氏追討のため、挙兵をします。

・源行家(ゆきいえ)

頼朝の叔父。「墨俣川の戦い」に敗れ、頼朝との関係が悪化。その後、義仲と結び、戦いに参加します。

・楯親忠(たてちかただ)

木曾義仲の家臣で、義仲四天王の一人。

巴御前(ともえごぜん)

義仲の側室となった女武士。「源平盛衰記」に、義仲軍の一隊の大将として活躍。

・樋口兼光(かねみつ)

義仲の挙兵時からつき従った人物で、義仲四天王の一人。

平家方

・平維盛

平氏軍の総大将を務めた人物。平清盛の孫にあたります。

・平行盛(ゆきもり)

同じく清盛の孫にあたる人物。

この戦いの戦況と結果

寿永2年(1183)4月、平氏の大軍が北陸道に向かうと、越前・加賀での前哨戦を経て、5月11日俱利伽羅峠で一大決戦のときを迎えました。

倶利伽羅山中の猿ヶ馬場(さるがばば)という地に本陣を敷いた平維盛は、7万余騎の軍勢とともに源氏軍を待ち構えていました。一方、義仲は平氏の動きに合わせて味方の軍を7手に分け配置させ、夜が更けるのを待っていました。

軍記物語・『源平盛衰記』によれば、そこで義仲軍は、400~500頭もの牛の角に松明を付ける奇襲、いわゆる「火牛攻め」をもって、平家の陣に夜襲をかけたとされています。昼間の進軍で疲れ切っていた平氏軍1万8千余騎は、源氏軍の奇襲に混乱し、何もできずに追い詰められ、人馬もろとも谷に突き落とされました。

また、『源平盛衰記』には別のエピソードも記されています。深い谷を背に身動きが取れなくなった平氏軍の前に、白装束の人影の幻影が30騎ほど現れ、谷の方向に向かっていきました。これを見た平氏軍は落ち延びる道があるのかと思い、我先に谷の方角に向かい、上からどんどん馬や人が重なり、圧死しました。

それにより、深い谷は死骸で埋め尽くされ、谷川は血で赤く染まり、やがて死骸から流れ出た膿が下流に流れたといいます。こうして、谷は「地獄谷(じごくだに)」と呼ばれ、谷川は「膿川(うみがわ)」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。

この「火牛攻め」の逸話は、木曽義仲の華々しい戦場面として絵巻物でもよく主題に選ばれますが、それが事実であるのかは不明です。ただ、いずれにせよ倶利伽羅峠の戦いで平氏側に大損害を与えたことは間違いありません。

この戦いにより、平氏方は多大な犠牲を被ります。木曽義仲追討軍10万余騎のほとんどが失われ、かろうじて生き延びた平維盛は京都へ敗走しました。

倶利伽羅峠の戦い、その後

奇襲により勝利を収めた義仲は、さらに平氏軍を追撃し、加賀国の篠原(=現在の石川県加賀市)で平氏軍を捉えました。その戦いにも勝利した義仲は、俱利伽羅峠の戦いから約2か月後に平氏を西海に追って入京に成功。半年に満たない短期間ではありますが京都を占領し、クーデタをおこして政権を掌握することとなったのです。

一方、平氏はこの敗北の打撃から立ち直れず、弱体化が加速します。そして、この年7月に都落ちして四国へと落ち延び、滅亡の運命をたどりました。

まとめ

長期にわたった源平合戦の中でも、ひとつの大きな山場だと言われる俱利伽羅峠の戦い。この戦いにより平氏は弱体化し、その後の都落ちに繋がったと考えると、源平合戦の運命を決定づける重要な戦いだったとみることができます。また、「火牛攻め」の説話の真偽は明らかになっていませんが、こうした説話が歴史に彩りを与えてくれるといえるのではないでしょうか。

文/豊田莉子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

 

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